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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 海の大国・インドネシア記(6) 「スマトラ」ハプニング  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/10/10  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「十五円札」に透かし絵があった!
 スマトラはインドネシア共和国の最西端の島だ。島といっても面積は日本の一・三倍もあり、人口は二千八百万人、島の中央を赤道が横切っている。
 インドネシアとはとてつもなく大きな国でジャカルタから、この島の最大の都市メダンに向かう機中、『LONELY PLANET』(英国発行の旅行書“地球ひとり歩き”)のインドネシア編の地図を眺めていたら、「この国の西端アチエ(スマトラ島の最北部)から東端の領土イリアンジャヤ(ニューギニア島)のジャヤブラまでの距離は、ほぼロンドンとイランの首都テヘランに等しい」と書いてあった。
 だから、この国の島々を回るには、結構、飛行機の長旅を覚悟しておかねばならない。ジャカルタから、メダンまで、二時間の旅だが、一時間の時差があった。この都市に出向いたのは、当地の名門校、北スマトラ大学の学長に会うためであった。「せっかく日本からスマトラまでやってきたのだから観光ぐらいしたらどうか。スマトラは、マラッカ海峡を隔てて、シンガポールやマレーシアと隣接している。マレーシアのマラッカ王国を建設したのは、スマトラ人であることをご存じか。インドネシアで、イスラム教が一番最初に入ったのもスマトラだ。ジャワ島のみで、インドネシアを語るなかれ」学長さんは、そう言って観光を熱心に勧めてくれた。
 人口百八十万人のメダンの市街は一年半前に起こった、大規模な反華僑暴動の跡も生々しく荒れ果てていた。どこに行っても日本人旅行者は皆無であり、観光客らしき外国人もまばらだ。ひとつだけ営業していた三つ星ホテル「メリディアン」に宿泊したが、ホテルの周囲は焼け跡の瓦礫が残っており、焼け残った商店街のビルもシャッターを下ろしたままだった。
「この街の商業を握る華僑たちが、難をのがれてシンガポールに疎開したまま、まだ帰って来ていないのだ」
 同行のインドネシア通の白石隆・京大教授が、いぶかる私にそう“絵解き”をしてくれた。九七年秋のクリシス・マネータ(通貨危機)による荒廃の復興もままならぬ二〇〇〇年二月のメダンの情景である。
「メダンに長居は無用。私はかつて、インドネシア人の学者と二人で、この島をバスを乗り継いで二週間の旅をしたことがある」と白石氏。そこで私は、一枚の一千ルピア札をとり出した。この札の裏面に気になる風景画が印刷されていたからである。
「BANK INDONESIA 1000 SERIBU ROPIAH」と書かれた札には、円形に連なる山脈の中央にスリ鉢型の巨大な湖が。小さな活字で「トバ湖」(DANAU TOBA)とあった。超インフレ国のくせにインドネシアの紙幣は、かなり丁寧に造られているのには驚きだった。この札の空白の部分には、偽札造り防止のための女性像の透かし絵まで入っていた。一千ルピアといっても、日本円に直せば、十五円の価値しかないのだ。
「気の毒な国だね、インドネシアは。十五円の価値じゃ、偽札を造る意欲もわかないのに」と言ったら、「発券銀行の体面がそうさせているんじゃないの。インドネシア人は人一倍誇り高き民族だから……。でもこんな立派なお札、おそらく製造コストの方が高くつくかも知れない」。白石氏が苦笑した。
 そんなやりとりの後、一千ルピア札の取りもつご縁で、結局トバ湖に遠征することにした。
 トバ湖。メダンから地図上の直線距離で百八十キロはある。現地の旅行社で、三菱の年代ものの運転手つきのバンをチャーターする。一九九〇年製のオンボロ車であった。旅慣れた白石氏が「車が古すぎる」と難色を示したが、これしかないという。「ガイドは不用」と言ったら、「車の付属品だ」と車ごと押し売りされた。「いやな予感がする」と白石氏。この車が元で、後刻、とんだ「スマトラ・ハプニング」に遭遇するのだが、インドネシアのアマチュアであった私は、その時、白石プロのこのつぶやきなど気にも止めていなかった。
 
「高名の木登りと言われし男」
 車中で、英国のガイドブックを開く。トバ湖はスマトラ島の背中にある山中のカルデラ湖で、東洋一の火山湖。スイスのレマン湖を連想させるたたずまいがある。避暑地としてオランダ人が開発した。高き千五百メートのカルデラ山脈の環の底に、標高九百メートの湖が展開しているのだ。
「ビワコ(琵琶湖)の二倍ネ」。メダンの旅行会社社長に押しつけられたガイドが、片言の日本語でそう言った。車はブラスタギに向かう。標高千四百メートの高原の町である。右手に標高二千四百メートのシナブン山が見える。さしづめ「スマトラ富士」といったところか。アカシア、陸稲、ヒマワリ、コーヒー、昼顔、竹林、カンナ、バナナ、トウモロコシ、松林、そして九ホールのゴルフ場。なんでも有りのリゾートだ。キャベツと白菜畑が、瑞々しい。ドイツ人のプロテスタントが布教のために入植したという、青と白のペンキの塗られた板造りの家並みのある山村を通り抜けトンギン展望台へ。標高千六百メート。はるか七百メートの眼下にトバ湖と、宿泊地のサモシール島が見える。絶景である。
 ここから四時間の行程で、一挙に義経の故事そのままに、スマトラの鵯越えをやった。だが、白石プロの不吉な予感が的中したのは、その道中であった。
 私はその夜、珍しくメモ帳に日記をつけておいたので、その日記の抜粋で再現しよう。
 湖に下る。遠景、若草山風なれど、近づくと急峻。三〇〜三五度の傾斜あり。緑の山に白い細紐を巻く如く、鉢巻状に泥道展開す。時折、土砂崩れ、落石現場あり。車のスリップ、イコール死。数百メート一気に落下すること必定なり。高所恐怖症の瀧女史(日手財団国際部)、絶叫し、しがみつく。「逆セクハラ」なれど、人道問題と思い目をつむる。この間、一時間、ようやく水田見え、村の入口にさしかかる。瀧女史、パニックを脱した様子。ここで小生、訓戒をたれる。徒然草の「高名の木登りといわれし男」の話である。高い木の上は注意が行き届くが、軒先の高さまで降りると油断して、木から落ちるとの人生訓なり。その直後、老朽のバン、急ブレーキをかける。曲り角で、山登りの小型バスをよけんとし、エンストす。エンジンは動かず、ギアもブレーキも故障の様子。三十分の苦闘も徒労。これ、この老朽車のご臨終なり。
  
地獄で“暴力団”
 このまま山に残されしは、夜間、山賊出現の危険ありという。白石教授活躍す。ミニ乗合バスを止めども、荷物多く、三人乗車は無理と断られる。侍つこと久し。光り輝くばかりの三菱パジェロの新車、来れり。得意のインドネシア語で、交渉す、ドライバー一人。同乗者なし。色黒く、アゴ髭はやし、屈強の男なり。背丈一メート六五見当。赤のブレザー着用し、指には金の指輪が二つ。一見、ヤクザ風なり。男は、首を横に何度もふりしも、拝み倒して、ようやく車中の人となる。白石氏、後刻知ったのだが、「世話してくれ」(金を払うの意味)をいったという。いささか緊張の面持ちの白石氏、車中で男の気持ちをやわらげるべく、男としきりに会話す。本人は「メガワティ民主党員」といっているとのこと。
 白石氏、日手語に切り替え、「“地獄で仏”といいたいところだが暴力団の親分です。グローブ・コンパートメントに、ピストルが入っている」という。「インドネシア政治のマル暴の役割は大きく、普段は党員として文通整理や民主活動をやっているが、一旦緩急あれば、政治の大ボスの親衛隊員として、デモでも焼き討ちでも何でもござれ」とのこと。“桑原、桑原”。この間約二時間。ようやく目的地の島に着く。ホテルの玄関にて、白石氏、二十万ルピア(三千円)渡すも、不満だといいはる。あと十万ルピア包むと、ニヤリと笑って帰途につく。Are you a democrat?と声をかけしところ、Yes sir.と、小生に参手の礼をとり満足げに立ち去れり、二〇〇〇年二月二日、午後六時半。トバ湖にて。
  
 トバ湖の水は、アサハン河となってマラッカ海峡に流れる。水流を利用して日本が大水力発電所を建設。その電力でスマトラにふんだんにあるボーキサイトをアルミにすべく精錬所を河口のクアラ・タンジュン地区に開業した。
 一九八二年、操業開始。年産二十二万トン。一九九九年十月、日本の便宜置籍船「アロンドラ」号(池野功船長)が、海賊に掌捕されたが、クアラ・タンジュン港から、アルミ・インゴット七千トンを日本に運ぶ途中であった。
 インドネシアは島が一万三千もあり海岸線の総延長は、およそ地球一周に相当し、海賊の本場である。こちらのスリルとサスペンスに比べれば、私たちの「スマトラ・ハプニング」など、とるに足らぬ小さな出来事ではあったが……。
 



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