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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: スリ・ランカ(美しい島)を訪ねる(下) 三人の“偉大なる”未亡人  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/03/16  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  非常事態宣言
 スリランカとは、この国に千年以上も前からある呼称で“美しい国”という意味なのだが、政治や治安の面からみるとかなり物騒な国で、もう三十年も、民族紛争とテロが続いている。
 一九九七年十月には、LTTE(タミール分離国家を解放する虎)によるコロンボのワールド・トレードセンターを狙った爆弾事件、九八年一月には独立五十周年式典直前に、キャンデイの仏歯寺の門に爆弾トラックが突入するetc。
 私のスリランカ旅行は、全土に非常事態宣言が発令された真っ只中であった。
 旅行者がこの国で、キナ臭い事件に遭遇するのは今に始まったことではない。先日さる古本屋で、『世界紀行文学全集』なる二十四巻の絶版本を手に入れたのだが、そのなかに、細川護貞氏のエッセイ、「セイロン・東洋の真珠の国に旅行して」を見つけた。
 五九年、コロンボを訪れた旅行記なのだが、今にして思えば、それが物騒なスリランカのはしりであった。氏いわく「九月二十五日朝。通行人の会話から、バンダラナイケ首相が黄衣の僧侶に狙撃されて重傷を負うた事を知った。……沿道には死を悼む白旗が家毎に出ていて、ラジオは朝から晩まで哀悼の意を告げる話と読経の声に満ちていた。……葬儀の日は、すべての店が休みで私のような旅行者は全くなすこともなくお手上げになってしまった」とある。
 彼は、ここはわが国の明治維新時代のような国と思って訪れたのだが、「あまりにも国内情勢が複雑である」と結んでいる。だが、複雑なるがゆえの不安定さは、今日のスリランカにおいてもいっこうに改善されていない。なぜ、スリランカの政情はいまもって不安定なのか。
「それは英国植民地主義の置き土産だ。仏教国として平和に暮らしていたのに。四八年に独立を勝ちとったものの、スリランカ人は、民族・宗教問題で対立し、平和は戻ってこなかった」(米国の大学に留学した現地の高校の生物学教師の説)。
 確かにアフリカや東チモールなど他のアジア地域の紛争と同様に、政情不安の遠因は、植民地主義にさかのぼることは否定できない。だが、それだけではあまりにも漠然としている。
 もっと直接的な理由を知るには、独立後の、ごく簡単なスリランカ政治史を頭に入れておく必要がある。
 スリランカ独立後、しばらくの間、この国の公用語は植民地時代と同様に英語であった。この国で英語の話せる人はエリートであり、とりわけキリスト教徒(英国の影響で、便宜的に仏教からキリスト教へ改宗した人々も含めて)だった。そして独立後のスリランカはこの種の人たちが支配していた。おおむね安定的な秩序が保たれていた。
 だが植民地時代の英語万能の継続では、民族の独立をはたして勝ち取れたのかどうか疑問が生ずるのは当然の成り行きであった。とりわけ人口の七〇%を占める仏教徒のシンハラ人には、英語ではなく、シンハラ語こそ公用語であるべきだと主張した。英語が不得手なのでまともな職業やしかるべき地位につけない。シンハラ語の公用語化は、彼らの公的地位の向上と雇用の増大の源であると考えたのであった。
 
シンハラ人とタミール人
 五六年、時の首相(当時は首相公選であった)ソロモン・バンダラナイケは、シンハラ語をスリランカの公用語とする法案を作り、議会でこれを成立させた。シンハラ人にとっては、まさに快挙であったが、これがただちにスリランカ国全体にとって“めでたし、めでたし”の結果をもたらさなかった。そこがこの国のような多民族・多宗教・多言語国家の難しいところだ。タミール語を話すヒンドゥー教徒のタミール人(人口の二〇%)が、にわかに少数民族意識と疎外感をもち、シンハラ人に敵意をもつ人が増えた。
 ソロモン・元首相の出たバンダラナイケ家は名門である。英国植民地時代の紅茶、ゴム、コーヒーの広大なエステートの管理人の出自で、英国で大学教育を受けた一族である。植民地の宗主国英国が引き揚げたあと、のし上がった新興の“貴族階級”でもある。急進的民族主義のソロモンの哲学は英国留学中に培われたもので、首相就任後、シンハラ唯一政策をかかげ、この島を仏教徒を中核として統一をめざした。
 ところが、黄衣をまとった“仏教徒”に襲われて、不慮の死をとげた。この暗殺の背後にタミール人勢力がいたのかどうかははっきりしない。だが、その日から民族・宗教戦争が始まったことだけは動かし難い事実だ。
 その意味では、この国は氏の随筆にある「東洋の真珠」のイメージとはほど遠い。バンダラナイケ・元首相の暗殺後、多くの政治家がテロで殺害され、そのなかには二人の国家元首と一人の大統領候補が含まれていると聞かされて、びっくりした。
 さらに驚いたのは、この国では夫を殺された未亡人や、父を殺された娘が弔い合戦で選挙に出馬し、統治するのが、慣例のようになっていることだ。今回のスリランカ訪問では、作家で日本財団会長の曾野綾子さんと一緒だったが、作家としての彼女のネームバリューがものをいったのかどうか確かめようがなかったが、偉大なる未亡人三人ときわめて短い日程に会見する機会をもった。国を代表する大物未亡人に、二十四時間以内に三人もインタビューのハシゴができるとは、ジャーナリスト冥利に尽きる。多分、ギネス・ブックものかもしれない。
 その一人、シリマオ・バンダラナイケ夫人は八十歳を超えていた。夫の暗殺のあと立候補し世界で最初の女性首相に就任、非同盟主義と社会主義を推進した人である。娘のクマーラトゥンガ夫人は現職の大統領であり、二度目の首相の座(大統領の任命制)についている。総理官邸で、彼女の強腕でおしすすめた民族主義の自己評価を問い質そうと思ったのだが、老齢で持病が悪化しているので、質疑は遠慮してほしいとクギを刺された。口を真一文字に結び、じっと一点を見つめている。「アユ・ポア」(コンニチワ)と言ったら、わずかに唇を開き「アユ・ポア」とつぶやいた。会話はそれだけであった。一緒に写真をとった。帰りがけに曾野さんは「GOD BLESS YOU」と、そして私は「BUDDHA BLESS YOU」とあいさつしたら、何度かうなずいた。
 
バンダラナイケ夫人の手相
「あの方は意思の強い天才で、現実主義者よ」と曾野さんがいう。会話抜きでそれがどうしてわかるのかいぶかる私に、「お話が禁じられたので、私はずっと彼女の手相を見ていました」と曽野さん。「左手に太い線が横一文字に走っていたから」というのだ。
「野党のリーダーの未亡人に会う気はないか」とある人に勧められて、九四年大統領候補のまま暗殺されたガーミニ・デイサナヤケ・統一国民党党首夫人を訪れた。五十歳を出たか出ないかのもの静かな美人である。
 この島名産の紅茶と一口サンドイッチの英国式ハイティで、もてなしてくれた。
 彼女は夫の身代わりに大統領選に出馬したが、女性同士の決戦は準備不足がたたってクマーラトゥンガ・現大統領に大差で敗れた。彼女はいう。「バンダラナイケ家のクマーラトゥンガ夫人の力量は認めるが、与党には人材がいない。経済は疲弊したままだし、コロンボはいぜんとして危険都市だ。観光収入も激減している」と。そしてこう続ける。「あの日、大雨が降っていた。何か気がかりで選挙遊説中の夫のヘリコプターに電話した。八時ごろ帰宅して食事は家でとると言っていた。しかし夫は帰って来なかった。十二時十五分、夫が重傷を負ったという電話が入った。女のテロリストが身体に爆弾を巻きつけて突撃したのです」と。この事件で死傷者は六十三人、五人の国会議員が死亡した。
 帰国の日の午後、チャンドリカ・バンダラナイケ・クマーラトゥンガ大統領との会見がようやく実現した。彼女は前出のバンダラナイケ未亡人の娘だが、父だけではなく夫もテロで失くしている。
 大統領官邸の警戒は厳重である。何度目かの検問ゲートをくぐり、ようやく門の中に入った。官邸の道路には矩形の穴が掘ってあり、地下から車の底を点検する。カメラも取り上げられた。大統領との短い会見の焦点は、なぜ、穏和なはずの仏教国で、かくもテロが頻発するのか??であった。
「それは長い長いストーリーで、それを話しだしたらいくら時間があっても足りません。父をテロで亡くし失意の私はロンドンの大学留学中、そのことについて論文を書きました。その論文をもとに英国人の学者と共著で『スリランカにおける暴力の起源』という本を近く出版します。本が出たら送ってあげます。この国は美しい国であり、本来善良でよく働く人々なのです。それなのに五十万人の人々が心の傷をもち、苦悩しているのです」。これがこの国初の女性大統領の答えであった。
 スリランカの自殺率は十万人中四十七人で、世界最高(日本は十七人)とのことだ。これも、この国の長い「暴力」の歴史と深い関係があるのだろう。
 



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