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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 「チャウシェスク」の墓前で。?ブカレスト再訪?  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/10/24  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ノアの大洪水以前?
 ルーマニアの首都、ブカレストを再び訪れた。二年前の夏、隣国のモルドバ国のビザを取得するためこの都市に二日ほど滞在した。今回(二〇〇〇年九月)は二度目である。あの時のブカレストの印象は暗かった。「街角に見る人々には笑いがない。気のせいかも知れぬが、追い詰められた表情をしている。経済低迷。環境汚染はなはだし。犯罪多し。街は危険、ホテル高し」。前回の私の旅行記用メモ帳を繰ってみたら、そう書いてある。
 ウィーン発のオーストリア航空でブカレストへ。退屈しのぎに機内サービスの英字紙(Herald Tribune)を拾い読みしていたら、「外国人旅行者、客足遠のくルーマニア。汚れとイカサマ商法が原因」との見出しが、時差ボケの眼(まなこ)に飛び込んできたのである。
「案の定。外国のジャーナリストも目の付けどころは同じか…。万国共通の記者気質」とかなんとか独り言の私だった。ところが記事を読むほどに表現のあまりのどぎつさに、たじろいだ。
 この記事いわく「今年上半期の外国人旅行者数は四%の減少。政府観光局発表によれば、米国、英、仏ともに減っており、旅行者数は二十四万人。
 チャウシェスク政権崩壊後、いっこうに改善を見ない“ノアの大洪水以前”の商法のなせる仕業である。ルーマニアのホテルは悲惨で、TVセットをつければ、ホテル・ランクの星を一つ上げるとか姑息な手段を政府はとっているが、浴室、力ーテン、シーツなどは四十年間も替えていない。ホテルに泊れば、外人はルーマニア人の二倍から五倍も料金をぼられる」とあった。
 あの独裁者、チャウシェスクを即決人民裁判にかけて、処刑してから十年余。「自由と民主々義」を獲得したとはいえ、この国の政治と経済社会のデタラメぶりはひどい。人間が神の怒りをこうむったとされる神話“ノアの大洪水以前”を引き合いに出すのは大袈裟としても、今のルーマニアは、チャウシェスク時代より劣悪なのではないのか??。機中でそんな気持ちにさせられたのである。
 ブカレスト大学のミハイレスク学長を訪ねた。二年前、私はこの大学を訪れたことがある。その時、高名な社会学者である彼が、「欧米では極悪非道のチャウシェスクと言われているが、それは皮相的である。この人物を性急に評価してはならない。客観性と歴史的評価が必要だ。まだ彼の評価に結論を出すのは早い」と言ったのが、気にかかっていたからでもある。
 
「ミハイレスク学長の見解」
「君のあのときの質問、覚えている。私は、“チャウシェスクは、ブラックでもホワイトでもない。灰色の巨人だ”と言ったよね。今日のルーマニアには、まだ彼の人物と業績を正当に評価する条件はととのっていないのだ」ミハイレスク氏は、今回も、断固としてそう言ってのけた。同行の日本財団理事長、笹川陽平氏が長年の日本語教育支援の功でこの大学から名誉学位を授けられたのを機に、質素な大学食堂で催された祝賀パーティーでの会話である。
『渡る世界は……』で、海外は知ってるつもりの私。でも、それはあくまで「つもり」であって、思い込みや、欧米中心主義の価値観と、その報道に翻弄されることなきにしもあらず。文化相対主義の目をもって、その国の人々と本音の会話をすると、しばしば発見がある。それが外国を旅することの本当の面白さであろう??。と思い直し、欧米では“悪の権化”一色のチャウシェスクの取材を、ブカレスト再訪の主題に定めた。
 ところで、チャウシェスクとは何者か。読者には若干の説明が必要であろう。ニコライ・チャウシェスク。一九六五年〜一九八九年、ルーマニア共和国大統領兼共産党書記長。外交では反スターリン主義を貫き、六八年の「プラハの春」のソ連軍事介入に参加を拒否。西側の称賛を勝ちとり、相次いで英・米・仏の首相、大統領のルーマニア招待と多額の借款導入に成功。
 七五年、東欧共産圏で初の貿易の“最恵国待遇”を米国から得る。八四年のロス・オリンピックに、ソ連のボイコット指令を無視し、ソ連圏唯一の国として参加。エリザベス英女王から勲章をもらう。中国、北朝鮮、イランに接近、独自の民族主義路線を展開。小国ルーマニアを巧みな外交で演出、国際舞台での存在を誇示した。
 内政面はこれに反し、狂気の沙汰との評価が一般的だ。二万人の秘密警察員と百万人といわれる通報員を動員、手紙の検閲、電話盗聴、会話の通報、長髪の若者の逮捕、客人の登録、住居の許可制etcを行った。
 避妊、妊娠中絶は禁止、「女性は四人の子供を産め、子だくさんは国家繁栄のもと」の政策を推進、乳児に他人の少量の輸血を行うと優生学上優秀な子に育つと信じ、強制的に実施した。(これがもとで現在、ルーマニアは小児のHIV陽性が多く、わかっただけで二千人の患者がいる)。数年にわたりGDP10〜20%を注ぎ込み、米国のペンタゴンに次ぐ世界第二の容積をもつ愚劣な大宮殿を建設した。北朝鮮の金日成のやり方にヒントを得たものだという。
 一九八九年十二月、ベルリンの壁崩壊の余波を受けて、反チャウシェスクの十万人デモが起こり、チャウシェスク夫妻を逮捕。即決裁判で銃殺に処した。当時から、人民弾圧の責任をチャウシェスク個人の罪に帰するための共産党幹部の“宮廷革命”との説もあった。
 チャウシェスク夫妻の処刑を、今日のルーマニア人は、どう受け止めているか。何人かの教授たちが重い口を開いてくれた。
「ルーマニア人民と反チャウシェスクデモに対し、外国勢力からのある種の工作があったように思える。一説によればチャウシェスクのリビアのカダフィ大佐とイランに対する接近を危惧したCIAが、反チャウシェスクの共産党幹部をそそのかしたともいわれる。いずれにせよ、外国のマスコミが報道したような単純な市民革命じゃないよ」。中年の物理学教授が、そうささやいた。
 ブカレスト大の日本語の教授、バニエク・ユリアさんは、こう言う。
「私たち知識人は自由のある今の方がいい。でも、庶民はチャウシェスク時代を懐かしがっている。汚職、政情不安、経済の疲弊による生活苦。この人たちにとってはあの時代の方が輝いていた。夫妻の処刑を反省している。チャウシェスクの墓の前で、泣いている老人もいる」
 
「Toti Morth La Respect」
 ブカレスト市内にチャウシェスクの墓があるとは初耳であった。処刑当初は、ただの土饅頭だけで、標識もなかった。やがて粗末な木の十字架が建てられ、今は石の十字架に「Ceausescu Niclae 1918〜1989」と書かれているそうだ。
 翌日、ユリアさんの案内で、この墓地を訪ねた。市の中心街から車で二十分ほどの市営霊園であった。この街では、偉い人や金持ちの墓地は別の場所にあるという。門の脇に棺(ひつぎ)の製造販売所がある。木彫の結構立派な棺が四十万レイ。日本円でわずか千七百円とは驚きであった。この国の経済がいかに弱いかを棺の値段が語っている。ちなみに市民の平均月収は百ドルだ。
 チャウシェスクの墓。高さ一メートほどの石の十字架。彼の小さなブロンズ像がはめこまれ、上部に赤い星が刻まれている。赤、黄、紫の菊の花束が無雑作に活けられたミネラルウォーターの空ビンが七本。ただそれだけであった。十メートほど離れた場所に妻、エレナの墓が。こちらは鉄製の十字架である。コカ・コーラの空ビンに花が二つ。十字架の横木に「Toti Morth La Respect」とあった。「すべての死者は、尊敬されるべきである」。そういう意味だとユリアさんが教えてくれる。
 墓参の間、一人の警官が無言のまま私たちにつきまとった。政府差し回しの公安警官と思ったのは杞憂であった。彼にインタビューを試みた。チャウシェスクをどう思うか??と。
「あの方は偉大であった。通貨の価値は高く生活は豊かだった。治安もよかった。人民は平等だった。今は闇屋とマフィアが支配する国で、市民の多くは失業者だ」
「なんですって? 人民を弾圧した? それは女房のエレナのせいだ。チャウシェスクは厳しかったが、人民には慈悲のある人だった」と一気に話した。彼は市営墓地警備の警官だった。
 この取材旅行中、私の頭の中でドラキュラこと、ブラド・テンペス串刺公とチャウシェスクが二重映しになった。「チャウシェスクはドラキュラの再来か?」と。
「吸血鬼ドラキュラは、英国人の書いた誤解にもとづく小説の世界の話よ。テンペス公は勇猛果敢で厳しい人だったが、トルコの侵入を防いだ偉人であると高校の歴史教科書で称賛されている。チャウシェスクが、それと並び称されるようになるかどうかは、何とも言えない。だってこの国は今、長い長い過渡期なのよ」。ユリアさんはそう言うのである。
 



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