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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 台湾再訪(上) 歴史の原点を訪ねる  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/06/27  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「打狗(タカオ)」と「高雄」
 台湾に出かけた。台湾は三回目である。日本財団は、台湾語?日本語同時通訳養成の事業を現地のNGOとやっているが、私の知ってる台湾は台北に限られていた。
「台湾に来て、台南を見なければ、台湾を知ったとはいえない」。仕事で台湾に行くたびにそういわれていた。
 今回は陳水扁新総統の就職式(あちらでは就任式とは言わない)に招かれた機会を利用して、高雄、台南の一泊二日の旅ののち、台北入りすることにしたのである。
 台湾の南端のこの島第二の大都市、高雄の空港で、約束通り潘扶雄さんが待っていてくれた。私が東京で求めた航空券の行き先は、ローマ字でKaoshougと記録されている。高雄の北京語読みは、「カォション」だからである。そこで聞いてみた。
「日本の台湾統治以前、タカオはカォションと呼ばれていたんですか」
 ところが「とんでもない。タカオはカォションでなくあくまでタカオでした」と意外な返事が戻ってきた。ケゲンな面持ちの私に、潘さんはこう説明してくれた。
 初めて漢人が未開の台湾にやってきた四百年前、先住民はこの地を「タカオ」と呼んでいた。そこで漢人たちは「打狗」(ター・クオ)という変な当て字を使った。「犬をたたく」という意味である。
 一八九五年、日清戦争に勝利し、この島を統治することになった日本が「犬を殴るとは、あまりにも侮辱的名称である」として、威風堂々の響きをもつ高雄に改めた。
 そして一九四五年、中国国民党が台湾を支配することにより、「高雄」は、日本語読みのタカオでなく、カォションになったのだという。
「でも、台湾史の原点に忠実に従うなら、カォションでなく、タカオと呼んでしかるべきでしょう」
 日本びいきで、しかも日頃「一つの中国論」を苦々しく思っている台湾人の潘さんは、不満そうだった。
 たかが地名の呼び方というなかれ。このあたりにも、台湾という“国”のもつ歴史の宿命ともいえる複雑さと難しさがひそんでいるように思える。
 高雄や台南など、台湾の南西部は新大統領の党である民進党の根拠地であり、熱烈な独立運動家が多い。
 この地を訪問したついでに表敬した高雄市長の謝長廷氏は、その先達の一人であった。
 一九八六年戒厳令下で、台湾初の野党民進党結成にこぎつけた一人で永遠の「民主々義台湾」を願う筋金入りの急進派政治家であった。
「私はね。最初、政党名を進歩・民主党で旗揚げしようと思った。ところが世界の政党を調べたら、アフリカに同名の政党が存在していたんです。そこで急遽、民主と進歩をひっくり返して民主進歩党に決定した。どのみち、意味は同じだからね。党の網領の原案は私が作った」
 新大統領の盟友であるこの人は、非合法時代の活動をふり返りつつ、英語と日本語を交互に使いつつ、感慨深げであった。
 高雄から高速道路を台南に向かう。潘さんのお勧めの台湾史の原点ともいえる地を訪れるためである。
「鳳木といいます。鳳風木花開、麗歌高唱。台南の名物の樹木で、花が開くと歌を唱います。日本の桜みたいなものでしょうね」。台湾の国民学校六年で日本の敗戦、その後師範大学を出て、高校で漢文や古典を教えていた潘さんの日本語は古き良き時代の美しい日本語だ。
「台湾の若い人に“あなた台湾で生まれ、日本に移民したんですか”とよく聞かれます。そういうときは、“日本人に生まれたのに、一九四五年から台湾人になっていたんだよ”と答えてやることにしています。若い人々、変な顔をしてます。この意味、今の若い台湾人にはわかりかねますね」。車中の潘さんは、そう言って苦笑した。
 
台湾人と鄭成功
 われわれの目当ては「鄭成功」であった。近松文左衛門の「国姓爺合戦」で、江戸時代の日本でも人気があったあの鄭成功が、オランダの台湾支配を覆したゆかりの地が台南にある。というよりも、台湾第四の都市台南は、そもそもオランダが開いた町であった。
 一六二四年オランダは台南に上陸、城を構築し、植民地経営の拠点とした。オランダが、先住民を使って築いたプロビンシャ城の周辺に、中国からの移住民を居住させて城下町を形成した。
「それが今日の台南市の発展の基礎となっている。この堅牢な城塞を中心に、オランダの支配地域は次第に拡大していく」
 先住民の祖先の血をひく伊藤潔氏は「台湾・四百年の歴史と展望」(中公新書)の中で、そう書いている。伊藤氏とは台南紀行のあと台北で親しく話をする機会があった。
 オランダ以前の台湾は、この島でそれぞれ独自に社会を構成するマレー・ポリネシア系の先住民(高山族)と、小さな村落を形成したごく少数の移住漢族、それに海岸線にいくつかの隠れ家をもったアジア系の海賊が、点在していた。
 こうして見ると、台湾を最初に、点ではなく面としてとらえたのは、中国人や日本人ではなくヨーロッパ人の目、すなわちオランダであったと言えるのではないか。
「オランダは、台湾のすべての土地を東インド会社の所有とし、中国本土からの移住者を招き土地を貸与、小作料を徴収した。これにより、米、砂糖、野菜など、台湾の農業生産性は飛躍的に増大した」と伊藤氏はいう。
 さて、話を鄭成功に戻そう。「ホラ。見てごらんなさい。この顔。オランダ人でしょ。昔のご主人様に重い鼎(かなえ)をかつがせる。当時の台湾人は痛快だったんですよ」。
 元プロビンシャ城近くの道教の寺廟。護摩をたく鉄製の器の足の部分の飾りに、重量にたえかねて、苦痛でゆがんだ西洋人風の顔の彫刻があった。もちろん鄭成功以降の作である。
 海賊の頭領、鄭芝竜と九州・平戸の女性の田川氏を母にもつ鄭成功は、「反清復明」(清国を滅ぼし、明国を再興する)明王朝再興の根拠地として台湾を選んだ。そして三百余隻の艦船と二万五千の軍勢をもって、プロビンジャ城を攻撃、占領した。オランダの統治に反発していた本土からの出稼ぎ移住民は鄭軍勢を歓迎した。
 鄭成功は明の再興はならなかったが、台湾を手中におさめ藩主となった。一六六二年の出来事であった。
「台湾人は鄭成功が好きです。オランダを追い払った人。台湾を開拓した人ということになっています。つまり私たちはいま台湾史の歴史の原点に立っているのです」と潘さんは感慨深げだ。
 元プロビンシャ城の城山には、オランダが築いた土台の上に、鄭成功治世の宮殿を修復し、「赤嵌桜」(チーカンロウ)が建立されている。
 日本の統治下では、彼の母が日本人だったせいなのか、清朝時代に建てられた鄭成功の廟、「延平郡王祠」は、「開山神社」と改名され、彼は明治政府によって“神様”になったという。
「これ本当の話です。この大きな石の門、何かに見えませんか。そう神社の鳥居ですよ。蒋介石時代、鳥居の一番上の横棒を撤去し、中国風の門に改造しました」と潘さん。
 一本残る横棒の上には、「中華民国」の紋章、「青天白日」のマークがつけられていた。台湾の初の漢族の政権である鄭氏の治世以来、大陸から大規模の移住者が、清朝の目を盗んで、新天地台湾に移った。
 
担子麺本家・度小月
 台南を拠点に独立と民主化運動を続け、選挙で台湾が合法的な政権を確立した民進党の人々は、その頃の漢人を祖先にもつ人が多いという。祖先は同じ漢族であっても、大陸とは別個に、その子孫たちが築きあげた独自の歴史的、政治的・社会的・経済的実体が台湾であり、中国共産党の支配する中国とは一線を画する??それが移民者を先祖にもつ台湾人の心情のようである。そして、その歴史上の象徴的人物が、鄭成功だったのである。
「台湾ラーメンの元祖の店に行きましょう」。潘さんに誘われた。台南の中心街、台南市政府庁舎と目と鼻の先に、五階建の雑居ビルの一階に、間口三間ほどの「担子麺本家・度小月」があった。麺は、中華麺とビーフンがある。軽くゆでた麺を、秘伝の肉とサカナの熱いタレに浸し、その上に肉団子や皮蚤(ピータン、ゆで玉子の燻製)、あるいは、刻んだ唐辛子をのせて食べる。
 その昔、漁師だった初代が、台風シーズンの小月(四〜九月)に、家伝の担子麺を、屋台で売ったのが始まりだという。一人前四十元(百五十円)。ただし、中国で試した麺とは異なり、一杯が小盛りである。「日本でいえば、椀子ソバですよ」と潘さんに勧められ、三杯たいらげてしまった。台南で生まれ、いま台湾全土で人気のある担子麺。これも大陸とは別個に築きあげた台湾独自の食文化とお見受けした。
 



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