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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: イスタンブールとは アジアと欧州の狭間で(上)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/11/24  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「オリエント急行殺人事件」
 わずか二泊の超駆け足の日程で、イスタンブールに立ち寄った。この地にあるイスタンブール工科大の商船学部を訪問するのが仕事だったが、旅人としての興味は、アジアと欧州に股をかけている世界で唯一の都市とはいかなるものか??それを実感するところにあった。
 出発前、徳富蘆花の『土京雑記』を読んだ。「マルモラの海、袋の如く括り寄せられてボスフオロス海峡となるの頭、ここに欧亜の関門をささへて立てる君士且丁堡(コンスタンチノープル)よ。千五百余年前、帝コンスタンチンが相して都となししも無理ならず。川の様なる海峡越しに向岸の亜細亜は与に語るべく、背後は即ち欧州。日夜に流るる碧潮の北すればすぐに黒海、南すれば終に地中海に通う。マルモラの海何ぞ美なる」。そういう冒頭の一節から始まっている。
 明治三十八年の作である。鳥の目で見たらイスタンブールとは何か。まずそれをつかむために、ガラタ塔の五十三メートの展望台に上り、この美文の口語訳を試みたのである。地図を開く。
 欧州大陸の東端にあるバルカン半島と、トルコの国土の九七%が属するアジア大陸の西端アナトリア半島の間に、マルマラ海がある。マルマラの海は、袋のように括られて細長いボスポラス海峡となる。その入り口の欧亜の関門に両足を踏んばって立つイスタンブールよ。四世紀にコンスタンチノス帝が、この地形に魅せられてローマ帝国の都としたのは、至極もっともだ。海とはいえ川のように見える海峡の対岸のアジアが私に何か語りかけているようだ。背後は欧州だ。絶え間なく流れる青い潮流を北上すると、ただちに黒海であり、南下すればその終わりは地中海に通ずる。マルマラの海はなんと美しいことか??。
 さすがに文豪の蘆花、七五調の文章は簡にして要を得ており、現場検証の印象と寸分違っていない。
「対岸のアジアに、行きたくなった」。ガイド兼通訳で考古学者のアルカン君にさっそく持ちかけた。
「皆さん、そう言いますね。ここからイスタンブールのアジア・サイドを見ると」と彼。
「でも、その前に案内するところがあります」。連れていかれたのが、ガラタ塔の背後にある欧州側の新市街。といっても千年以上の歴史があり、海の男、ジェノバ人たちが住んでいたところだ。市街電車の大通りから裏道にちょっと入ったペラ・パラス・ホテルに立ち寄る。
 コンスタンチノーブルは十五世紀、オスマン・トルコによって陥落したが、メフメト二世の“船山に登る”の奇襲策はつとに有名だ。この都市の欧州サイドは、金角湾という入り江を隔てて南北に分かれ、南サイドに、東ローマ帝国の城壁があり、今でもその一部が残っている。トルコ軍は、金角湾の入り口が鎖で封鎖されていたので、船底に動物の脂を塗り、馬と人力で新市街の丘を越え、七十七隻の軍艦が、入り江に突入した。滑走距離は一キロに及んだというのだ。「その進路が、このへんです」とアルカン君。十九世紀に新市街に建てられた、ドルマバフチエ宮殿に「山越えするオスマン艦隊」と題する油絵がある。後刻、その画集を見てようやく納得がいった。
 さて、ホテル・ペラ・パラスである。「アガサ・クリスティの“オリエント急行殺人事件”を知っているでしょ。この小説、日本の方は好きですよ。四一一号室でそれを書きました」。神戸に一年いたというこの若い考古学者の日本語はほぼ完壁であった。十九世紀末に建てられたホテルだが、「オリエント急行バー」もあり、古びた当時の時刻表やポスターなどが、アメ色のシックな木材の内装によく調和している。
 いつも海外に出るときは、『LONELY PLANET』の旅行案内書を持参する。この本をめくってみたら、「ホテルの宣伝であってクリスティが泊まったかどうか証拠はない」とあった。でも旅は面白いのに限る。ガイド氏の言うしことを信ずるに如くはなしだ。固いことを言っても始まるまい。
 ホテルはいささかマユツバかもしらぬが、オリエント急行の駅は、クリスティの小説そのままに実在する。旧市街の北端のシルケジ駅だ。もっとも同小説の舞台になったパリ行きの急行は二十年前に廃止され、今日ではドイツのミュンヘン止まりだ。映画「オリエント急行殺人事件」の現地ロケは、この駅で実際に行われたという。三本ある駅のホームは一本だけ、当時のまま保存されている。名探偵ポアロ、いかさまの金細工売り、列車に積み込まれる山積みの野菜や肉、そしてマルマラ海の生ガキ。映画のシーンが、現実のホームと二重映しになる。臨場感一〇〇パーセントである。

「ウシクダラ」由来
 主役のポアロは、アジア側からボスポラス海峡をフェリーで渡り欧州側のシルケジ駅にやってきたが、映画とは逆に、ここからアジア側に渡った。フェリーは二十分おきに出ている。対岸まで三キロ余、速い潮の流れを横切って十五分もするとアジアだ。「USKUDAR」。船着き場に地名を示す看板がある。
「ウシクダラ」。はてどこかで聞いた名前だ。アルカン君が「そう。日本では江利チエミが歌ったでしょ。それですよ」と言う。トルコ語では「ユスキュダル」と発音するそうだ。
 この地は、この都市のアジア側の中心地のひとつで、昔は、オスマン・トルコの高級官僚の住宅地だった。丘に続く路地には、古いトルコ式のオール木造の家屋が残っている。二階には、必ず出窓がついている。「ウシクダラ」は高級役人の息子と街の娘との恋物語の民謡を、名前は忘れたが、アメリカの有名歌手がポップソングに仕立てて大ヒット。それが日本に入ったらしい。
 娘が日傘をくるくる回し、ハンカチを落とす。出窓の息子はそれを拾いあげて両親に示して許しを得る。イタリアの悲恋物語「ロミオとジュリエット」は、窓から顔を出すのはジュリエットで、男女の上下が逆になっているが、それが昔のトルコ流求婚のしきたりだったらしい。
 ウシクダラは活気に満ちている。人口千二百万人のイスタンプール。ビジネスのオフィスの八○%は欧州側にあり、住宅の九〇%はアジア側にある。ボスポラス海峡には二本の高速道路橋がかかっている。ボスポラス橋と第二ボスポラス橋だ。
 それぞれ別名「サッチャー橋」と「日本橋」という。前者は英国の援助、後者は日本のODAで建設されたからだ。だがこの二本の橋では、イスタンブールの欧亜の人流をさばけない。だからフェリーが主力で、何本も航路がありしかも安い。渡し賃は一人「六万五千トルコリラ」と聞いて、一瞬、ギョッとしたが、日本円にすると五十円だった。
 夕刻のウシクダラ。岸壁には食料品や雑貨の市が立つ。マルマラ海名物、新鮮なシコイワシも光っている。一キログラム五百円。この国にしては高いと思ったが、オフシーズンとのこと。日本人ほどではないにせよ、この国の人々は魚好きであり、桟橋には何隻かの屋形船があり、魚の塩焼きやカラ揚げを売っている。焼き加減も塩加減も上々で、パリやマドリードより美味だ。
 モンゴルの草原の遊牧民がトルコ人の祖先だといわれるが、魚の味付けがモンゴロイドに分類される日本人の味覚とぴったりなのが気に入った。トルコ人はやはりアジア人なのである。

黄金色の海峡で思ったこと
 二、三百人のホワイトカラーやブルーカラー、行商人を満載して欧州側からやってくる帰宅ラッシュのフェリー。それを横目に数百トンはあろうと思われる大型フェリーで、わずか数人の乗客とともに欧州側に戻った。夕日が黄金色に海峡に映える。ふと、ある感慨が、私の脳裏を走った。
 ボスポラス海峡の中央をもって、東側はアジア、西側はヨーロッパ。そんな境界線をいったいだれが決めたのか??それを自問自答したのである。
 そもそも、アジアという概念はアジア人が作ったのではない。紀元前七世紀ごろ、地中海の航海権を制覇したフェニキア(いまのレバノン)人であった。ここより東方の地域を日の出る地方の意味で、「ACU」、西方の日が沈む地方を「EREB」と呼んだのが、アジアとヨーロッパの名称の始まりだという。それは、それでよい。
 私の自問自答のポイントは、この大都会イスタンブールが、地図上においては、最短距離では七百メートしかない川のような海峡で、アジア地区、ヨーロッパ地区とはっきり色分けされたからである。この分類は欧州本位制の発想で行われたに違いない。十八、九世紀に七つの海の覇権を握った英国海軍水路部が定めたのかもしれない。そう考えると、イスタンブールの旅人がフェリーでアジア・欧州を往復したからといって、特別の感慨にひたることもない。しょせんは隅田川を隔てて中央区と江東区が分かれているようなもので、イスタンブールはあくまでイスタンブールではないか。
 二〇〇〇年になったらコンピュータが狂う。そういう実質的な変化をともなうひと区切りとはわけが違うのだ。そんなことを言ったら、明治の文豪、徳富蘆花先生に怒られるかもしれないが。
 



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