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著者: 林 雄二郎  
記事タイトル: 日本人の原価値観とフィランソロピー  
コラム名: [大特集]日本社会における『公』と『私』   
出版物名: 季刊アステイオン  
出版社名: TBSブリタニカ  
発行日: 1997/07/01  
※この記事は、著者とTBSブリタニカの許諾を得て転載したものです。
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  社会貢献を優先させた明治の指導者
 ダニエル・ベル先生の歴史的な名著『資本主義の文化的矛盾』には、「アメリカや日本をはじめ現代の工業社会は、政治・経済・文化という三本の柱によって支えられてきた」とある。
 ここであえて支えられてきたという過去形でいうのには理由がある。それは特にベル先生のお国であるアメリカの場合、この三本の柱がそれぞれ独立した目的に向かって独り歩きをし始め、それぞれの間に矛盾をあらわにし、一つの危険な兆候を示し始めているのが現代だと指摘されているからである。
 さて、同じく工業社会の成熟期にあると思われる日本の場合にはどうだろうか。農業社会の成熟期であった明治維新直前までの日本、江戸時代の日本??これは今から顧みると、一本の柱は、政治権力はあったが経済力がまことに貧困であった武士階級。もう一本の柱として、経済力はあったが政治権力が全くなかった商人階級。そしてもう一本の柱が、政治権力も経済権力もなかったが、知性的には少しも貧しくなかった賢明な農民や職人などのいわゆる庶民たち。この三本の柱によって支えられてきていたように、思うのである。
 これはそのころ同じ封建社会であったヨーロッパの国々に比べると、むしろ日本のほうがより安定した社会であったということが言えるのではないだろうか。なぜならば、ヨーロッパの場合は政治権力と経済権力とが合体しており、要するに、政治権力を持っているところに経済力もあった。そして、政治権力も経済権力ももたない庶民とは隔絶していた。この点こそ、日本がヨーロッパ型。のいわゆる革命を経ないで農業社会から工業社会へ転換することに成功した大きな理由であったと思う。
 しかし、その明治以降、工業社会としての日本はどういう足取りを経てきたであろうか。私の見るところでは、必ずしも順当とは言えない。既に故人になられたヒルシュマイヤー博士(元南山大学学長)の名著『日本における企業者精神(entrepreneurship)の生成』(東洋経済新報社、一九六五年刊)によると、明治の財閥は、江戸時代のいわゆる豪商と言われた人たちの流れをくんだ人もないではなかったが、それよりもむしろ、かつては富とは無縁であった下級武士の中から出た人たちによって形成されていった。その主たる理由は、侍階級、並びに商人階級の人たちのそれぞれの青少年時代の教育基盤の違いによるものであったと、博士は指摘しておられる。
 それは具体的に言うと、商人たちの学校である寺子屋における教育というものが、主として「読み書きそろばん」といういわゆる形而下の実学であったのに対し、武士階級の子弟が行く学校は、各藩の藩校といわれるところであって、教育は主として形而上の倫理学、哲学といったような学問であった。このような学問的素養の違いが、明治以降になって欧米先進国から流入してくる新しい思想、新しい学問を吸収する上で非常な違いを発揮したというわけである。
 武士階級の者たちは商人階級の人たちに比べて、そういう新しい思想や新しい学問の吸収がより容易であった。そういうことが、富とは必ずしも縁のなかったはずの武士階級の出身者が逆に新しい財閥形成に成功して、その後の日本をつくっていくうえで大きな影響力を果たした。ヒルシュマイヤー博士は、そう指摘しておられる。それは違うと否定する人もいるかもしれないが、私は確かに一面の真理ではないかと思う。
 明治維新後、徳川幕府を倒して新政府をつくったのが、いわゆる薩摩・長州を主とした反幕府の諸藩の武士たちであったことは当然としても、財閥を形成して経済力を握った者たちの多くも、またかつての武士たちの後身であったとすると、さきに述べた江戸時代までは政治権力はあったけれども経済力がなかった侍階級と、経済力はあったけれども政治権力のなかった商人たちとが合体をした、いわば政治経済権力とでもいうべき一本の柱に統合されてしまった、ということになる。
 そして、もう一つの、政治権力も経済権力もなかったけれども、知的で開明的であったいわゆる庶民たち。彼らも依然として一つの柱になるわけで、いってみれば二本の柱が存在した。政治経済権力の柱と知力の柱と言おうか、その二本の柱によって新しい社会が支えられていたということも言えるのではないか。
 このように見てくると、さきに紹介した著作の中でヒルシュマイヤー博士が述べている次の指摘はよく理解できる。「明治の財閥たちと欧米の財閥たちの企業者精神を比較してみると、ともに利潤の追求を第一義とするという点では共通しているが、利潤追求か社会貢献かという二者択一を迫られたときの意思決定というものは極めて対照的である」
 というのは、欧米の財閥たちは、こういった二者択一を迫られた場合でも利潤追求を優先することが多いのに対し、明治の日本の財閥たちは、例外なく利潤よりも社会貢献のほうを優先させている。ヒルシュマイヤー博士のこの指摘は、社会という言葉をそのまま国家という言葉に置き換えてみると非常によくわかる。
 今日、Societyという言葉を「社会」と訳したのは福地源一郎だとよく言われる。一八七五年(明治八年)、東京日日新聞の社説の中で、ソサイチーと振り仮名をつけて「社会」と書いたのが社会という日本語の第一号だというのが今では通説になっている。社会という言葉は昔からの日本語にはなかった言葉であり、日本人の日常語の中に社会という言葉が定着するのはかなり後のことだということは間違いないらしい。現に私の手元には、明治二六年に刊行された、物集高見(もづめたかみ)という人の編集した『日本大辞林』という古本があるが、その中には「志やかい」も「志やくわい」も全然出てこない。

博愛も公益もその対象は「国家」
 明治のころの企業者たちが何よりも国のために尽くすことを第一義に置いたであろうことは、現代の私たちにも容易に推察できる。彼らの若いときの教育的な基盤が形而上学をべースにしたものであったということは先に述べたが、より具体的に言うならば、その形而上学というのはいわゆる治国平天下の学問、すなわち政治権力者の持つべき基本理念とでもいったらいいような学問である。それが経済権力をも手中にしたとしても、その思想的基盤が変わるはずはないであろう。そして、それが明治の新しい政府のもとですべての日本人に共通なものとなるよう教育のべースに組み込まれていったことは、当然であったろう。社会イコール国家。国家以外のことをイメージする社会概念は反国家的な思想に通じる危険な思想であるという、今から考えればいささかひずんだ考え方が次第に定着していった。かくして公益とか公という言葉の意味するところもまた、その延長線上に位置することになったとしても、あながち不思議なことではなかっただろう。
 私自身のことを振り返ってみよう。私は一九一六年(大正五年)に生まれ、一九二三年(大正一二年)の関東大震災の年の四月に小学校に入学をした。そのころの日本の子供が、小さいときから常に耳にしたのが、ほかならぬ教育勅語である。そして、その中に実は公とか公益という言葉が既に出てくる。教育勅語の中には「父母ニ孝ニ」から始まる一五項目の徳目が、日本人として不可欠の徳目であるとして挙げられている。その中に「進デ公益ヲ広メ」「義勇公ニ奉ジ」という文言が出てくる。「博愛」という言葉もある。まさにフィランソロピーの基本が既にうたわれていたということになるだろう。
 そこのところの一節をここに抜き書きしてみる。「博愛衆ニ及ボシ学ヲ修メ 業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ 進デ公益ヲ広メ 世務ヲ開キ 常ニ国憲ヲ重ジ 国法ニ遵ヒ 一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」
 博愛も公も公益もすべての対象は国以外の何ものでもない。もっと端的に言うと、「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」することに集中していくのであって、それ以外の公や公益を考えることは全く考慮の外であるということになる。小学校一年生のときから常に、このようなことを折に触れ時につけ反すうしていると、それがまさに常識になってくる。現に私自身、そのような考え方に何の疑問も抱かぬまま成長していったことは事実である。

大正デモクラシーの「限界」
 さて、日本は第一次大戦を連合国の一員として体験した。そして、戦勝国の列に入ることになり、デモクラシーという新しい潮流の洗礼を受ける。かつて明治時代に、武士の流れをくむ者たちが資本主義という新しい流れをいち早く我がものとし、企業者として目覚ましい成長を遂げたのに対して、大正の時代にデモクラシーの洗礼を、より有効に、より正確に受けとめたのは、いわゆる知的には決して暗愚でなかった庶民大衆であったと思う。
 公益と国益とは必ずしも同じではないのではないか。より端的に言えば、国益とはひと味違う公益というのがあるのではないか。国家貢献と社会貢献とはどうも必ずしも同じではないのかもしれない。国家貢献とは異なる社会貢献として何か考えられそうだ。……。そういったようなことを真剣に考えようとする兆しが庶民大衆の間に芽生え始め、そのような潮流の中で日本にもアメリカ型の財団が次々と誕生する。
 しかし、ここで指摘しておかなければならないのは、日本独特のいわゆる主務官庁による制約である。日本には明治時代に制定された民法という法律があるが、その法律によって、公益団体というものはすべて主務官庁の許認可を受けなければならない。そのような監督を受ける過程で、せっかく芽生え始めていた新しい公益概念の芽が摘み取られていくのである。
 その一つの例をあげよう。一九二三年(大正一二年)二月に文部省から設立を認可された齋藤報恩会。この財団が認可される一年半前の一九二一年一〇月、茨城県の図書館において、この齋藤報恩会の設立評議会というのが開かれた。その設立評議会の席上で、創立者の齋藤善右衛門氏の演説が行われた。その演説の記録が『齋藤報恩会要覧』に収録されている。いわばこれが設立趣意書に当たるわけであるが、要約すると次のようなことがそこには書かれている。「人間は神か仏か、とにかく偉大な力を持つものによって世界文化向上のために働かされているのである。その働きによって得たものは、天物であり、それは私すべきものではなく、人類の幸福のために提供すべきものである。このような考え方から報恩、天の恩に報いるために公共事業の基本金として三〇〇万円を出捐し、財団を設立することとした。評議員は齋藤家のためなどということは一切考えないで、神仏の代理としてこの天物を天意に、天の心に背かぬよう公平に用いてほしい。もし一家一族ことごとく滅亡しても、絶対に累をこの基本金に及ぼしてはならない。また、家政の許す限り、齋藤家は今後も基本金の増額に努めたい。ある人たちは私のことを極端な吝薔家だと誹謗するけれども、自分は質素倹約を旨として生活をしてきた。こうして得られた天物をことごとく投げ出すことは、欣快の情に堪えない」
 ここには伝統的ないわゆる儒教の精神とはちょっと異なる、ピューリタン的とも言える実践倫理をかいま見ることができる。国家とか国民というような観念はここには出てこない。あるのは世界文化の向上であり、人類の幸福である。そして財団は家から独立したものであるということを言っているわけである。この演説を世間の人は、齋藤善右衛門氏の「報恩主義」というふうに評したが、ここでいう報恩、恩に報いるという言葉は、世間一般に言っている報恩ということとはどこか違う観念のように思われる。素朴ながらも新しい近代的な市民社会の息吹すら感じるのである。ところが、財団が設立を認可されるのは、それから一年四カ月後の一九二三年二月。所管は文部省、理事長は齋藤善右衛門氏自身がなるが、理事・評議員には地元の官界、学界、経済界の主要な人たちが名前を連ねていた。
 では次に、その具体的な事業内容を、会社の定款に当たる財団法人の寄付行為というものによって検討してみる。その第一条、第二条を抜き書きしてみる。
第一条 本財団法人ハ 国運ノ進展ニ資センガ為 精神上 物質上 必要ト認ムル事業ノ設立及幇助ヲ為スヲ以テ 目的トス
第二条 前条ノ目的ヲ達スル為 東北地方特ニ 仙台市ヲ中心トシ此ノ事業ヲ行フ
 一. 特定ノ 学術研究所ノ設立(これは東北大学の金属材料研究所のことだが)、及 一般学術ノ研究ニ必要ナル設備並ニ 研究費ノ補助
 二. 産業発達ニ 必要ナル施設
 三. 国民思想ノ啓発善導及 国家観念ノ扶養其他社会ノ幸福増進ニ必要ナル施設
 こう見てみると、これがあの善右衛門氏の報恩主義の具体化なのであろうか。何かまるで全く別のものになっているような感じすらする。国運の進展といい、国民思想といい、国家観念の善導といい、齋藤善右衛門氏のさきに紹介した演説からはちょっと想像しがたいものがここにはあらわれている。
 ここで示されるように、いわゆる大正デモクラシーの若芽は、結局若芽のまま開花することなく昭和の動乱期に入っていく。これは私自身の感懐だが、もし大正が四〇年、五〇年と明治同様に長く続いたならば、かなり違う面が出てきたと思うが、大正はわずか一五年で幕を閉じるのである。

日本が畸型的工業国になった理由
 さてそこで、その後の日本を顧みると、工業社会としての成長を一九六〇年代の高度成長期までの約一世紀にわたって続けてきたが、その間、常に日本は畸型的な工業国であったように思われる。太平洋戦争終結までの日本が、常にその経済力の割には軍事的に非常に肥大し過ぎた工業国であったということは今さら言うまでもないが、それに比べて戦後はどうであろうか。確かに軍事的な肥大という点はなくなったものの、依然として畸型的であると私は思う。六〇年代の高度成長期を経て、日本は経済大国と言われるほどの工業国となったにもかかわらず、その経済活動に比較して社会セクターの活動が極めて低調であったことは紛れもない事実である。その点で、やはり日本は一種の畸型的な工業国というふうに言ってもいいのではないかと、私は思うのである。
 なぜ日本は、社会セクターの活動が相対的に貧しい畸型的工業国になってしまったのであろうか。社会という言葉に対する認識も戦前とは非常に異なってきているはずなのに、これはどういうふうに理解したらいいのであろうか。ここで明らかにしておきたいのは、「社会」に対する日本人の認識の仕方の特徴である。さきに明治以降の日本人が社会イコール国家という認識をするようになったと述べたが、これはもっぱら政府による教育の結果というべきであって、日本人が昔からそのような認識をしてきたとは考えられない。日本でフィランソロピー活動が低調なことの理由として、日本の社会がキリスト教の基盤が弱いからだと言う人がいるが、それは必ずしも正しくないのではないか。
 欧米のキリスト教国の人たちが個人と神との契約において無視することのできない行動原理としてヒューマニズムがあるということは、それは確かにそのとおりであろう。また、その結果として、他者と隔絶された自己と神との関係ということに基盤を置く自己の概念というものは、確かに日本人にはなじみの薄い考え方かもしれない。しかし、だからといって日本人には自己という認識があいまいであるとは必ずしも言えない。日本人的という形容詞をつける必要があるかもしれないが、日本人的な自己認識というものがあるのではないだろうか。
 さきに齋藤善右衛門氏の演説の中で天の恵みに対する報恩という考え方を披露したが、これは決して齋藤善右衛門氏だけの特別な考え方ではなく、実は日本人の本来の思想だったのではないか。そのことは一〇〇〇年以上も昔の日本の古典である『日本書紀」では、恩という字を「めぐみ」とか「いつくしみ」と読ませており、意味としては非常に広い意味をもっていた。天の恵み、自然の恵み、といった考え方が極めて普通の考え方であったようである。つまり現在「報恩」というと、すぐに親の恩・師の恩・主君の恩であるというように非常に限定されてしまい、狭い観念に閉じ込めてしまう。それはその後の儒教などによる影響であって、本来はもっと伸びやかな広々とした報恩思想というものが日本人の価値観として古くからあったのではないか??と思うのである。
 言うまでもなく、仏教は古くから日本人の思想に大きな影響を与えてきた。仏教の経典の中で最も基本的な教典は「般若心経」ではないかと思うのであるが、その「般若心経」のエッセンスとも言うべき「色即是空」という言葉の意味を最も大胆に翻訳してみると、色というのは一切の存在物。これは生物であろうと無生物であろうと、一切の物、物財といったらいいだろうか。そして、空というのは宇宙。したがって一切の存在物はすべて宇宙とつながっているということである。これは宇宙一切の森羅万象がことごとく相互にかかわり合いがあるということを言っている。これがすなわち仏教で言うところの「縁」なのである。
 釈尊の言葉として伝えられている「天上天下唯我独尊」。これは何か随分思い上がった言葉のように思われるが、それはとんでもない間違いであって、人間はだれでもかけがえのない存在である、という意味である。自分自身もかけがえのない存在であるけれども、同時に他の人たちもそれぞれにかけがえのない存在である。要するに人間の尊厳、個の尊重ということを言っているのである。それは身分とか出自というものとはかかわりのないことであるということを言っている。そういう教えこそ仏教の教えの最も基本的なものであったと思う。
 平安時代の初め、空海が説いた教義もそうであったし、京都九条に設けられた綜芸種智院という今日の学校の原点になるものにおいても、身分・出自の一切を問わず誰もが平等に入る資格をもっていた。その後、ずっと後世になって法然や親鸞の説いた教義もまさにそうであった。日本人は本来、自己に対する自覚が乏しいということはなかったはずなのである。
 しかし今日、日本人の社会概念や、その基本としての自己に対する意識がどうも薄い、低調であるということが言われる。これも事実として認めざるを得ないが、それはやはり明治以降のいわばつくられた意識とでも言うべきものではないか。日本人本来の意識はそれとは異なるものであり、自己に対する自覚があったとしても、それはかなり独特のものだと思う。というのは、それはあくまでも他者とのかかわり合いを前提にしている。その限りにおいて、おのれも他者もそれぞれにかけがえのない存在であるという自覚の上に立っている。このことは、時には他者に対する思いやりという優しい面も見せるけれども、時には肝心な自己に対する自覚があいまいになる。「人のふり見て我がふり直せ」という諺が日本にあるが、まず人の考えを確かめた上で自分の考えを述べるというような傾向が今でもあると私は思う。そういうことが、日本人は自己に対する自覚が足りないといわれるゆえんなのであろう。

「国家」「公益」の概念も千差万別
 そこで、もう一つ指摘しておきたいことがある。特に明治以降、日本が近代的な工業社会になってから、終身雇用や年功序列という制度が定着してきた。そのために、目に見えるものや具体的に認識できるものに対する帰属意識のほうが明確に自覚できるという意識が特にはっきりしてきた。
 具体的に言うと、愛国心、愛社精神、こういう愛○○精神といったようなものは明確に意識されるが、社会というような、いわばつかまえどころのないようなものに対する観念となるとどうもはっきり認識できない。こういう傾向が顕著になってきたようである。このことは国家以外の社会という認識がどうもはっきり持てないという結果にもなってくるが、ところが、国家に対する帰属意識もまた必ずしも明確ではないということを私は過去における体験の中で発見した。
 私は戦後、経済企画庁に二〇年以上勤務した経験がある。その間、実は日本の国益というものについての概念が各省庁ごとに微妙に異なっているということを発見したのである。日本という国は一つしかないのに、その日本の国益は決して一つではなく各省庁の数だけあるらしい。このことから思いついたのは、さきに明治以降、日本人の意識の中には国家以外の社会概念は存在しなかったということを述べたけれども、その国家という概念も必ずしも共通の一つの明確な概念ではなくて、実は人によってそれぞれ異なっていたのではなかったかということである。アメリカのナンシー・ロンドンさんの著書を読んでいたら、「日本人の公益の物差しは、役所の担当官の数だけある」という言葉が出てきて、なるほど外国人から見たらそう見えるのかもしれないなと思ったのである。私は日本人だが、経済企画庁で各省庁の国益というものが必ずしもイコールではないということを身をもって体験したのである。
 もう一つ付言しておきたいことがある。それは、日本人の本来の思考法の特徴の一つに連続の思想とでもいうべき思考法がある。それは自己と他者、それが生物であろうと無生物であろうと、断絶していないという思考法である。
 これは古代のアニミズムの名残とも思えるのだが、誰でも死ねば直ちに神になる。念のために言っておくが、神のしもべになるのではない。神そのものになるのである。石や木にも、精霊が宿っている。そういうことは現代人の意識にもあきらかに生きている。日本の神社の屋根にある千木(ちぎ)という交差した木は、宇宙の神とのコミュニケーションをするアンテナの名残である。昔の人はあれで宇宙とコミュニケーションをしていたのである。
 また、神社の神主さんたちが唱える祝詞(のりと)というのがあるが、祝詞の中で何回も出てくる「高天原に神づまります」という言葉は、天には神が住んでいるという意味でもあるけれども、そればかりではなく、文字どおり天には神が詰まっているということのようである。すなわち天には神が無数におられるという意味でもある。これはさきに述べた「般若心経」の色即是空の言葉とも相通じる言葉であって、これを要するに古代の日本人がおのれと神とは断絶しているのではなく連続してつながっているという意識が、日常生活の中にも生きていたためである。
 戦前のような国家主義的な傾向がなくなっている戦後教育の中で成長した現代の日本の若者たちには、戦前の日本人のような硬直的思考パターンはなくなってきている。したがって、現代の日本人は、かつての日本人に比べてより柔軟に社会に対する認識をすることができるはずだ。
 まず第一に、高度知識社会について考えてみよう。情報というものは知識の栄養素の一つである。現代はインターネット等に代表されるように世界的広がりの中で情報ネットワークがつくられつつあり、それは高度知識社会への過度的段階にあると見ていい。しかし、現代のインターネットを見てると、これは言葉はちょっと悪いが「糞と味噌を一緒にしたネットワーク」とでもいうべき状況にあり、これが直ちに望ましい高度知識社会への先駆けとなるかどうかはちょっと疑問である。いずれにせよ、高度情報社会が進めば進むほど、個人・組織(これは国家も含め)、そのいずれについても相互のかかわり合いがより深く、より広くなっていくであろうから、さまざまの障害、さまざまの制約も深刻になっていくであろう。言い換えれば、社会の硬直化が問題になってくるであろう。これをどのように柔らかくするのかが鍵になってくる。
 その場合、日本は世界の中で最も硬直的な存在になるのではないかと危惧される。第一に今日、ソフトな組織に対する仕組みというもの自体が、ほとんどまだ考えられていない。国連をはじめさまざまの国際組織は、文字どおり国というものを基本ユニットにしているから、これからの地球社会の運営には不適当であるし、また恐らくどの国でも、法律の中ではソフトな組織というものの考えは出てこないのではないかと思う。さらに、国民国家が今日は事実上崩壊しかけているため、そもそも国家とは何かということが問題ではないだろうか。

「市民」革命の静かな始まり?
 さきに私は明治以前の日本社会を支えてきた柱の一つとして、極めて賢明な庶民大衆の存在を指摘した。現代に伝えられている日本の伝統文化は、実はこれら政治権力も経済権力ももたない江戸時代の庶民たちによって、はぐくまれ受け継がれてきたものであった。時の政府はしばしば風俗壊乱の廉(かど)で弾圧することはあっても、決して彼らに手厚い保護は加えなかったようである。にもかかわらず、それを守り、育て、受け継いできたのは名もなき庶民大衆であった。そして明治以降もまた、特に第一次大戦以後の一時期、国益とは違う公益とは何かということを真剣に模索した人たちがいたらしい。大正デモクラシーといわれる流れが当時の社会の中の一つの流れになろうとしていたが、この流れは決して時の政治権力や経済権力の影響を受けて発生してきたものではなく、それよりもむしろ庶民大衆による新しい意識の興隆によるものであったと私は見ている。
 明治時代に制定された法律によって、公益の基準は常に政府によって決められ、また、すべての公益団体の指導・監督は一切政府の手中にあった。いわゆる主務官庁の制度が確立しているからである。このような基本的な枠組みは、第二次大戦後もそのまま継承されて今日に至っている。第二次大戦後、日本は新憲法を制定し、主権在民の民主主義国家に生まれ変わったはずである。しかし、かつての大正デモクラシーの流れが高揚したときと違い、戦後の民主化(民主主義国への衣替え)は政府による改編であった。その政府もまた、実は戦後の日本を占領したGHQ、もっと端的に言えばアメリカによる改編であったとも言える。
 このときに新憲法の草案をつくったGHQと日本政府との間で大論争があったことは、今日有名な史実となっている。つまり、英語の Japanese people という言葉を日本語では「国民」と訳したのであるが、それが問題だった。GHQとしては、people を初めから国民と訳されたのでは民主主義の根本が崩れるという強硬な意見であったようである。ところが、日本語にはそれ以外に適切な言葉がないということがGHQ側にもだんだん理解されて、結局国民でいこうということに落着した。そしてこの実情は、実は今でも少しも変わっていない。しかも、既に述べたように公益の基本を決めるのは政府である。公益活動は政府によって管理される。そういうことを規定した法律が明治時代に制定されたままの民法であるということは既に述べた。とすると、日本は戦前とはほとんど変わっていないということになりそうである。
 しかし、世代間の意識のギャップは世界中どこでも見られることであるし、実は日本もその例外ではない。戦前の日本では、市民活動とか市民社会などという言葉はなじみの薄い言葉、むしろ危険な言葉であったということはさきほど述べたが、今日ではそれは普通の言葉になってきた。戦後育ちの若い人々にとっては、国民と言うよりも市民と言ったほうがなじみの深い言葉になったかもしれない。それは国政の場でも例外ではない。ついひと昔前までは当然「国民」と言っていたであろうところを「市民」と表現しているケースが、実は政府の文書の中にも少なくない。現に国会でNPO法案というものが上程(次国会に見送り)されているが、NPO法案というのは俗称で、正式な法律の名前は「市民活動促進法」といい、ここでは市民という言葉が立法府でもまかり通っているのである。だから今、静かな革命が起ころうとしていると言う人がいるが、それは必ずしも的外れの言葉ではないかもしれない。
 最後に一つ、新憲法の話が出たので、ここで新憲法の第八九条に少し触れたい。八九条にいわく「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」??これは要するに、国の金を社会セクターの活動に対して出してはいけないということである。私たちは社会セクターという言葉を使っているが、ベル先生のご報告の中では、インデペンデント・セクターと言っている。まさにインデペンデント・セクターがインデペンデントであるためには国の金に頼ってはいけない、と言ってるわけである。だからこそインデペンデント・セクターなのである。ところが、今日多くのNPOが国からの補助金を受けている。あれは一体どういうことなのだということになる。この条文を裏返して考えれば、これは何でもないことである。公の支配に属しないインデペンデント・セクターには国の金を使ってはいけないということだ。だから、国のお金を使うのは公の支配に属するものだ。それを自他ともに認めることになる。私は常々、今日フィランソロピーを行う団体は憲法八九条を大きく書いて壁に張っておけと言っている。日夜これを拳々服膺すべきである。
 よく世間では、国は金は出しても口は出すな、それを理想にすべきだなどと言う人がいる。私に言わせれば、これはとんでもないこと。金は出しても口を出さないということは憲法違反であって、金を出したら口を出すのは当たり前である。五〇年も前に新憲法が、インデペンデント・セクターとはこういうことであるとうたっている。それをご披露して、私の報告をおわりにしたい。


はやし・ゆうじろう
1916年東京生まれ。東京工業大学電気化学科卒業。経済企画庁経済研究所長、財団法人未来工学研究所長、東京情報大学学長などを経て、1994年より日本財団顧問。著書に『成熟社会・日本の選択』(中央経済社)、共著書に『日本の財団』(中公新書)、訳書に『資本主義の文化的矛盾』(D・ベル著、講談社学術文庫)など。
 



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