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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ベルリンで思ったこと(下) ドイツ人とはどんな人か?  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/11/21  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「オー シェーネベルグ!」
 たった二泊のベルリン滞在で、そんな大それたことがわかる筈はないとは思いつつ、ひとつの旅のテーマを設定してみたのである。それは「ドイツ人とはいかなる人たちなのか」という命題である。その昔、日独伊三国同盟というものがあった。日本の医師のカルテはドイツ語で書かれた時代があった。明治憲法の下敷きはプロシヤの政体であった。森鴎外の『舞姫』をひきあいに出すまでもなく、日本の文明開化以来、「ドイッチェ・シューレ」(ドイツ派)なる文化人が存在し、近代文明のお手本をドイツに求めた時代が長かったのである。
 だが、今や、われわれにとって、「ドイツは遠くなりにけり」になったようである。第二次大戦の敗北により、ドイツと日本の“心情的絆(きずな)”は、細くなった。もちろん、今日ドイツを観光する日本人は、決して少なくはない。だが旅人の関心は、ロマンティック街道(ローマヘの道という意味で、ロマンスとは関係なし。以上念のため)とか、黒い森と古城とか、ライン川のローレライとか、メルヘン街道(北ドイツのグリム童話の足跡を訪ねる旅)etc。中世からせいぜい十九世紀までのドイツを探訪する旅であり、現代ドイツは、あくまで、日本の旅人の視界の外である。というわけで、「現代ドイツ人気質」をあえて主題に選んだのだ。
 タクシーに乗る。日本人好きのトルコ移民コンシェルジュ(ホテルの接客係)に、「シェーネベルグ区役所に行ったらどうか。外国人の観光客は、Check-point Charlie(ベルリンの壁時代の東西関所)と、そこを訪れる」と勧められたからである。それは、現代ベルリンの観光名所のひとつ。一九六三年、当時の米国大統領、John F Kennedyが、西ベルリン市役所であったこの建物のベランダから「Auch ich bin ein Berliner !」(私もまたベルリン市民だ)と、ドイツ語で締めくくった大演説をぶちあげ、四十万人の観衆の感涙を誘ったところだ。壁の向こうのソ連に対し壁の非人間性をなじり、西ベルリン市民に対しては、「米国はあなたたちを孤立させない。全力をあげて市民の自由を守る。自由を尊ぶ点では、私もベルリン市民だ」と訴えた故事来歴がある。
「Shoneberg city hall」。私は教えられた通り行き先を告げたのである。ところが、純粋ドイツ人のタクシー運転手氏との間に、ちょっとした“言語上”の問題が発生した。相互の使用言語は英語だったのだが、何度も行き先を言わされたのだ。「俺の英語わからないの、君も英語を話せ!」とやり返したら、なんと「あなたの英語はよくわかる。でも、行き先だけわからない」と応酬され、“シェーネベルグ”を三回も発音させられた。「オオ、シェーネベルグ!」。彼は、クソ真面目な表情でそう言った。“O”の上にウムラウトのついた“変母音”の単語なのだが、私には同じに聞こえる。そして「シェーネベルグとは、美しい丘という意味だ」とのたまわった。
 世界広しといえども、こういうタクシー運転手にお目にかかったのは、初めてである。クソ真面目と言おうか、手厳しいと言おうか。「ケネディの場所」とつけ加えたので、多分行き先は最初からわかった筈なのに許してくれなかったのだ。よほどの変人にぶちあたったのかと思ったら、この種の直線的なものの言い方をする人物はドイツには結構いるとのことだ。「ある種のドイツ人気質でしょうね」。ドイツ生活二十八年のテラサキ氏の分析である。
 持参した『外国嫌いのための旅行案内・ドイツ編(Xenophobe's guide to the Germans)』をめくってみた。「ドイツ人は、ていねいな表現はしない。言葉の浪費だと思っている。ドイツ人は人見知りをする。見知らぬ者に対しては、英国人と比較するとはるかに距離を置く。ドイツ人は不規則やあいまいさを嫌う」とあった。たった一度の経験をもって、これぞ「ドイツ人文化の真髄を見たり」と思い込むのは多分早計だろう。でもやはり、現代ドイツは地球の裏側の国、私の肌にはどうもぴったりこない。
 
赤信号と歩行者
 ドイツ人とはいったい何者なのか? 現地で奇妙な新聞記事が目にとまった。ドイツの有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ」の英語版だ。「××州(なんという名の州かは失念した)で、道路を走行するすべての車を六時間にわたって検問した」とある。詳しい数字は忘れたが、約六千台の車が警察によって強制的に停車させられ、取り調べを受けたがその結果このうち千五百人が、法律違反で検挙されたという報道があった。その時ドイツで何事が起こったのだろうか? 実は何事も起こっていなかった。ただの検問だったのである。「事件もないのにいきなり検問するのは越権である」と同紙は論評していた。(これは全く同感。日本ではそんな事はあり得ない)。だがなぜ、千五百人もの人が警察に挙げられたのか? 不思議なことにその数の異常な多さについては、この新聞には一行の説明もない。後刻、その謎が解けた。逮捕者のほとんどが身分証明証不携帯の罪に問われたのである。
 ドイツは、法律や規則、規制でがんじがらめの国とお見受けした。法律によれば、すべてのドイツ人(旅行者やドイツ存在者も含む)は、常に身分証明証を身に着けていることを義務づけられている。違反者は最高六時間、警察署に留置されるとのことだ。それなら海水浴をしている最中でも、逮捕されるのか??などと茶々を入れたくもなった。
 でも、前出のテラサキ氏は言う。「ドイツ人は情容赦のない法規に縛られていることにさほどの不自由を感じていない。むしろドイツ人は、好んで“法と秩序”という言葉を口にする」そうである。そういえば、以前、ドイツについて面白い話を聞いたことがある。
  
 深夜、赤信号を一人の男が横断した。猛スピードで走行中の車が、彼をはねてしまった。救急車と警官が出動した。男は病院に運ばれ、ドライバーは「青信号を通過したのであり、正当である」との理由で、警官に「立ち去ってもよい」と言われた。現場を目撃した外国人旅行者が、「はねられた男はどうなるのか」と聞いた。警官は「彼が生きていたら罰金を徴収する」と答えた。
 
 このケース、日本では、「前方不注意」でドライバーは業務上致死傷に問われるだろう。だからドイツ人の法律一辺倒のものの見方を、揶揄するジョークだと思っていた。ところがベルリンに長く住む日本人に聞いてみたら、真顔で「本当の話です」とたしなめられたのである。
 日独の法をめぐるカルチャーが、かくも異なるとは……、愕然たる思いだった。私は三十年前、アメリカで車の免許を取得した。その際、筆記のテストで似たような状況を想定した設問があったのを記憶している。1)青信号なのだから、スピードを落とさず直進する2)歩行者をよけつつ蛇行して走る3)徐行する4)一時停止をして歩行者の横断を待つ。以上のうち正解は4)であった。たとえ歩行者が法規違反であったとしても、歩行者を発見した以上、停車するのが、米国の法の文化であった。
 
「アア、肩が凝る」
 なぜ、ドイツ人は、不規則やあいまいさを嫌い、ルールというものを四角四面に解釈するのか。前出のテラサキ氏とともに、ドイツ人の生活と意見を教示してくれた真峯さんが、教えてくれたのである。真峯さんはご主人が、ベルリンフィルの奏者で、この国に八年居住している。
「ゲルマン人の祖先が寒い国の森の民だったことと関係があるのかしら……。グリム童話の世界のように森の生活はとても厳しいから、部族の掟を守らないとすぐさま死に直面する。それとも、ローマ人に比ベると、とても野蛮な祖先だったから、部族の統制のためルールを厳しく守るようしつけられた。それが現代ドイツの法の文化を形成したのかも」と。午前八時以前と十時以降は物音をたてるな。つねに窓ガラスを磨け。芝はまめに刈れとか。住宅地にも掟がいろいろあるという。怠ると「お前はルールに違反だ」とただちに近所から苦情がくるという。口やかましいと言おうか、おせっかいと言おうか。この国で暮らすには、さぞかし肩が凝ることだろう。
 四角四面のドイツ人と、“あいまい”が美徳となるわが日本。お互いに気が合うわけがない。そういう国同士が、地球の枢軸と称して第二次大戦前、同盟を結んだ。
 あれはいったい何だったのか。肝心の軍事的効果も目に見えたものはなかった。ヒトラーが自決した地下壕の近くにあった当時の大日本帝国のドイツ大使館が復旧、菊の紋章が輝いていた。建物の豪華さだけは、日本の最重要国の大使館並みだった。冷戦時代は東ベルリンに属し、廃屋だった。立派な大使館が再建されたとはいえ、今日の日独関係は、波風がないものの、遠くて稀薄である。
「二国間に何も問題がないことが、今日の日独関係の最大の問題点です」。駐独大使の久米さんが、そう言うのである。
 



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