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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 「インド」びっくり紀行(1) 問答・カレーとは何ぞや  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/03/28  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  紙幣は十五の公用語で
 インドは初めてである。仕事で出かけようと思えば、機会がないわけではなかったが、先送りしてきた。インドは広くて、雑多で、しかも奥が深いから、旅行記を書くには、難しい国ではないか??。そういうある種の気後れがあったのかもしれない。というわけで、今回のインドは、かなり予習をしてから出かけた。
 インドは、東西、南北ともに三千キロ、その広さは「国」というよりも、「大陸」といったほうがふさわしい。全ヨーロッパと同じ大きさをもつ。「東西、南北、縦に行っても、横に向かっても、人々は異なる、言語は異なる、習慣は異なる。こんな並はずれた多様性をもつ国は、この地球上でインドをおいてありや?」と“冒険旅行の福音書”の定評をもつ英国発行の“Lonely Planet”(地球一人歩き)に、ある。
 「そう。そのとおり。五十マイルも旅すると異なる人種、異なる言語になるのがインドなんだ」。首都デリーのホテルで、懇談した文化人類学者、アンドレ・ベティーユ・デリー大学教授がそう言った。アンドレとは三年前、ドイツで開かれた「文化のグローバリゼーション」と題するシンポジウムに出席し名刺を交換したことがある。E?MAILで連絡をとったら、わざわざホテルまで訪ねてくれたのだ。
 アンドレはインドの多様性を説明するために、ルピー紙幣を一枚、食卓のテーブルに置いた。英語、ヒンドゥー語、サンスクリット、ベンガル語など、十五の公用語が、印刷されている。「インドには、四百の言語がある。そのうち十五の言葉で、この札の価値を記しているんだ」と彼。「5とか10とか、インド人はアラビア数字はわかるはずだ、識字率が低いとはいっても……」といったら「多分、君は正しい。でも国家が紙幣に強制通用力を持たせるには、そういう面倒な手続きが必要なんだ。そこが、多言語、多民族、多宗教インドならではの現象さ」と。
 思い切って「インドとは何ぞや」と問うたのである。「インドとは、いろんな顔をもつ不思議な国。日本人にとってはもちろんのこと、時にはフランス人を父に、インド人を母にもつインド人の私にとっても。君の旅行中、見聞きするものは、ことごとくインドであることは私が保証する。一つひとつが、まさしくインドなのだ。だがそれは全体像ではない。だから君のいう“多様性”をもって、“What is India?”の解とはなし難い」と彼はそういうのである。
 多様性のなかに統一性、共通性をどこに求めるのか。それがインド学の根本テーマだともいった。(ついにおいでなすった。だから俺はインド人が苦手なんだ)。少々自棄っ腹になる。こう言ってみた。「わかった。わかった。その統一性とやらは、食物だ。カレーライスだろう」と。
 意外な答えが戻ってきた「ウン。そういう答えも悪くはない。文化とはしょせん、心の態様であり、インド人であることは帰属意識の問題だから……」と。
CambridgeにOxforde、そしてChicago大学で教鞭をとった高名な学者、アンドレの口答試問をパスしたのか、それともからかわれたのか。今もって謎なのだが、「わけのわからぬバラバラのインド、それを繋ぎ合わせて、まがりなりにも“一つのインド”の体裁をつくろっているのはカレー料理だ」と、以後、思うことにした。それは、私にとってまさしく「インド発見」であった。
 
“カレー”の命名者はポルトガル人
 インドは一週間の滞在だった。アンドレとの二時間半におよぶ会食以外は、(彼はHotel Oberoiの北京料理を所望した)は、毎食カレーで押し通した。「物好きな男。よく腹がおかしくならんね」。帰国後、よくそういわれる。が、腹の調子はかえってよくなった。この国のカレーには、薬膳の効果があるらしい。インドでは毎食カレーが当たり前、つまり日常茶飯事である。
 カレーとは何か。頭ではわかっていたつもりだが、やはり、にわか仕込みの知識は、すぐに身につかない。デリーの住宅地、観光客のあまり行かないインド料理専門店での夕食、ニューデリー駅から一時間二十分の郊外から通勤するガイドのラジ(RAJ)君を引き止め、食事に誘ったときのことだった。英語のメニューもある。でも、七十以上もあるメニューの品目に、Curry(カレー)と明記されたものがなぜか三つしかない。
「地元のわりには案外カレーが少ないんだね。この店は……」。ついそう口走ってしまった。ラジ君は、デリー大学物理学科の秀才だが、就職口がない。卒業後二年間、日本語を学び、デリーの日系旅行会社にもぐり込み、まあまあの日本語と得意の英語でガイドをやっている。
 相手が悪かった。彼は私の失言を聞き逃さなかった。「この店で出すものは、紅茶、コーヒー、コーラ以外はすべてカレーです。煮ものも、妙めものも、スープも、焼きものも。そもそもカレー料理とはですね……」。ラジ君はカレーについて、まくしたてた。おそらく、日本の観光客相手に何度も同じ解説をしたことがあるのだろう。
 「いや。わかってるよ」とさえぎったが、止まらない。私との間に、日本語と英語のゴチャ混ぜのデイベートが始まった。彼のカレー論の半分は、私のインド予習で得た知識の範囲内だったが、ハッとするような話もあった。
 彼と私の「カレーとは何ぞや問答」のあらましは以下のとおりだ。
1)カレーとは、さまざまな香辛料で調味した、インド風料理の総称である。カレーの黄色はウコン(どうか誤植しないで!)であり、シナモン、チリ、パプリカ、黒コショウ、ターメリック、生唐辛子、ジンジャーなど、何十種類もある。色は、黄色だけでなく、白、赤、緑もある。
2)「カレー」の命名はインド人ではない。ラジ君はポルトガル人だという。十五世紀バスコ・ダ・ガマがやってきて、香料のにおいに誘われて、原住民に何を食っているのかと聞いた。「カリ」だといった、カリとは、“ご飯”つまり、食事一般のことだが、ポルトガル人は、香辛料を使った「カリ」だと勘違いした?
3)「カレー」、つまり香辛料なかりせば、インドは、英国の植民地にならなかったであろう。これは、ラジ君に言って聞かせた“私の仮説”である。唐辛子はカリブ海が原産で近世にインドに入ったものだが、その他の香辛料はインドが原産。とくに中世ヨーロッパでは、肉の香辛料であり、かつ保存料、そして解毒剤であった黒コショウは超貴重品だった。金一オンスと黒コショウ一オンスは同価値だった。中世にはアラブ商人が、インドから地中海諸国への香辛料貿易を一手に引き受け、ボロ儲けをしていた。そこでヨーロッパ諸国は、アラビアを通過せずに、インドに到達する航路の開発にやっきとなった。それが、インド植民地化のきっかけではなかったか?
 
「新宿中村屋」の由来
 ラジ君に「ビールを買ってきて」と頼んだ。インドのレストランは、高級ホテル以外は、アルコールを出さない。イスラム教は禁酒だし、ヒンドゥー教徒も酒をほとんど飲まない。彼は缶ビールをどこからか仕入れてきた。(一本三ドル、インドは酒が高い)。ラジ君は「店の主人にワイロをやってきます」という。ほどなくコーラの大型紙コップに、生ぬるいビールを入れてボーイがもってきた。だが、酒、いやビールがいっこうに、はかどらないのだ。黄、白、緑、ベジタリアン向きのホウレン草カレー(これは格段の美味である)も含めて、五皿の料理をあらまし平らげたのだが、ビールは半分以上残ってしまった。ここでまた、ひとつの発見。インド人が酒を飲まないのは、宗教上の理由もさることながら、そもそもカレーと酒は合わないからだろう。
 この日の英字新聞(The Times of India)に、「インド独立の志士で、一九四五年、台湾で事故死をとげたスバス・チャンドラ・ボース氏の骨を日本の寺からインドに移すよう、インド政府要請へ」との記事が出ていた。ラジ君の解説では、政権党のBJP(インド人民党)は、マハトマ・ガンジー(国民会議派)よりも、彼と路線を異にしたチャンドラ・ボースを尊敬しているとのこと。
「チャンドラ・ボースのパトロンは、日本の有名なカレーレストランの主人で、彼の亡命生活を支え、奥さんは日本人だった」とラジ君はつけ加えた。「ハテ? それは初耳だ」。私は半信半疑だった。
 帰国後、中村屋の新宿本店に出かけ真相が判明した。中村屋のレジにチラシが置いてあった。いわく「明治年間、インド独立の志士で、中村屋の創業者相馬家の女婿でもあったビハリー・ボースが伝えた本場の味、インド・カリーは……」とあった。同じインド独立の志士ではあったが、「ボース違い」だったのである。ところで中村屋の“インド・カリー”。有名になるだけの値打ちはあるのだろう。でも、私の試したインドのそれと似てはいるが、やはり異なる料理であった。
 



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