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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: パラオ共和国紀行(4) 豊饒の海・伝統の島々  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/02/01  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「青地に丸く、月を染めて」
 パラオ共和国の国旗は、海に満月をあしらったものだ。日本の南洋統治時代、「白地に赤く日の丸染めて……」と、パラオの公学校でも文部省唱歌が歌われたとのことだ。そのころの生活体験の刷り込み現象で、日の丸と似たデザインの国旗をこの島の人々が制定したのか、そのあたりのことはよくわからない。「平和と静寂の旗だ」とパラオ人は誇らしげだった。
 この「海と満月」旗は島々のいたるところで見かけた。「日の丸」の掲揚に抵抗を示す人も住むどこかの国とは異なり、この国の人々は、国旗を愛している。たしかに日の丸に劣らず簡素な美しさをもつ旗ではある。この国の人々がなぜ月と海を国旗にデザインしたのか。今回の旅で「なるほど……」と納得がいったのである。
 まず「月」についてである。「南洋の月は美しい」と話には聞いていたが、パラオの月は想像していたよりも、もっと大きく明るかった。空の高さが違うはずはないのだが、日本で見るよりも、この島の夜景は月をぐっと下界に近づけている。日本では名月といえば、秋の夜の季題だが、ここには秋もないし、秋の虫もいない。ここの名月はいつも夏の月である。それでいて、月光は一年中日本の秋のように澄んでいる。政庁のあるコロールと橋でつながる景観の島、アラケペサンの西岸にあるパラオ・パシフィック・ホテルに三泊した。リゾートの砂浜の椰子の葉が月光を浴びて青く光っていた。私にとって新聞が読める明るさではなかったものの、見出しくらいは十分に読めた。プール脇の茂みの暗闇で、一筋の光が尾を曳いてのびていく。蛍だった。蛍は常夏の国だから、いつも見ることができるらしい。
 「海」はどうか。観光地パラオの売りものは、スキューバダイビングである。だから七色に変化する珊瑚礁の浅い海と、エメラルド色の深い海は世界に名がとどろいており、観光客誘致のうたい文句になっている。「美しき天然」であるには違いない。だが、視角をもうひとひねりすると、パラオの海はもっと深い趣がある。夕立、いやスコール一過の海は格別だ。夕方になるといつも、スコールがやってくる。だから西の空には、ほとんど毎日、いくつもの虹が海上に立つ。頭上に残る雨雲は、海を濃い緑色に塗りかえ、時に緑色の雨が落ちてくる。
 まさに豊饒の海パラオであるこの国の人口はわずか一万八千人、村か町の規模だ。壁一面に広がる特大の世界地図でも、数個のゴマかケシ粒にしか見えない群島国家だが、「美しき天然」には、ぜいたくなほどに恵まれている。月夜の浜辺で、案内役のマサオ・サルバドール・駐日大使にそう語りかけた。
 「自然環境だけじゃないよ。パラオの歴史や伝統文化も観光客の心をひきつける十分な魅力をもっている。パラオ・エコ・カルチャー・ツアー(環境・文化めぐり)はどうだろう。でも日本からの飛行機便が少ないからネエ」とマサオ大使。
 私の手元に、パラオで求めた一冊のぶ厚い英文の観光案内書がある。帰国後、この本を開いたらその第一ページには「今世界で最もきれいな海に浮かぶ私たちの小さな国をご理解いただき、この美しい海と、そこに棲息する珍しい生物たちと永遠の友情を結んでください」と、前大統領エピソン氏の署名入りの序文が掲載されていた。
 しかし、私の短いパラオ紀行の収穫は、「美しい海」と「珍しい生物たち」もそうではあったが、マサオ大使の推奨のとおり、この小国の伝統と風習の不思議さには目を見張るものがあった。「不思議の国」にやってきたとの実感をもったのは、二つの文化遺産との出合いだった。
 
「バイ・ガール」とは何ぞや?
 ひとつは、「バイ」という名の古い伝統的建築物である。「バイ」とはパラオ語で集会場という意味だ。草葺きの切妻型の三角屋根のハウスで高床式になっている。大きいもので高さ十二メート、玄関正面幅が六メート、奥行きが二十メートもある。正面の屋根下の三角形の壁面には象形文字風の模様が彫ってある。太陽、亀、星、魚、タコ、ハマグリの殼、浪、男と女などなど。何かの物語を表現している。バイ葺きは、村には必ず二つか三つあったというが、草と木造なので寿命は五十年。朽ち果てたバイを復元したものをコロールで見学した。博物館の女性学芸員の解説では、「バイには酋長の住居と集会所の二種類あり、酋長用のバイは女人禁制」という。集会所用のバイには、必ず裸の女性がアクロバットのように足を全開した姿を彫ってある。はたしてこれは何を意味するのか。学芸員女史に尋ねたところ、「あれは、バイ・ガールというもので、何百年も前からあったが、近代になって消滅した生活習慣だ」との意味ありげな答えが返ってきた。
 はたしてバイ・ガールとは何者か? 博物館で購入した本の「パラオのバイス」という項目を読むことによって、謎がとけた。「集会所としてのバイは学校のようなもので、少年が釣り、狩り、大工仕事を習うところ。それだけでなく、パラオの少年の初体験もバイの中だった。よその村から連れてこられた若い少女たちが、彼らにサービスをして、パラオのオカネ(ウドウドという)をもらった」??ということだった。
 「バイ・ガールとは売春女性のことなり」と納得がいったが、パラオ語の「バイ」が英語の「BUY」と同音だったのは「偶然」というもののいたずらに過ぎない。パラオの女性は早熟で初体験が早い。若い未婚の母も多いと聞いたが、子供は母系制社会の伝統の残る村々で、母方の家族にひきとられて大事に育てられるとのことだ。スペイン、ドイツ、そして日本と三代の宗主国に支配されることにより、この群島に「近代」がもたらされたのだが、母系列を軸にした大家族主義は、いまでもしっかりと根をおろしているものと、お見受けした。
 
ヤップの「石貨」はどこから来たか?
 もうひとつの驚くべき文化遺産は、世界最大の貨幣、「石貨」である。といつも、パラオの昔のおカネは、ウドウドといって、稀石やガラス、あるいは小さな陶器であった。パラオは石貨は使わなかったが、何百年も前から、隣の島であるヤップ(東京?大阪間の距離はある)に貨幣の原材料となる巨石を供給していたのである。多分、その昔、ヤップの酋長たちが、丸木船で近隣の諸島探検をやり、たまたまパラオで見たサンゴのなれの果てである石灰岩が宝石に見えたのだろう。本国にこれを持参し珍重しているうちに、通貨になったに違いない。石材の原産地のペリリュー島で聞いた話では、巨石をロープで縛り、海面下に吊るし、水の浮力を利用して、丸木舟で漕いで、数カ月もかかってヤップに運んだとのことだ。だからその価値や推して知るべしであった。
 ところが、十九世紀の中葉から石貨の価値が暴落したという。米国の商人がこれに目をつけ、パラオの大酋長から採掘権を獲得し、現地で石貨を製造、帆船で大量にヤップに運んだからだという。それでも昭和の初期でもこの石貨はヤップで立派に通用していた。矢内原忠雄氏が、昭和九年に書いた随筆、「ヤップ島旅行日記」に、次のような興味深い叙述があるのを見つけた。
 私「ヤップの貨幣(石貨)を使用したことのある者?」??ほとんど全員が挙手。
 私「それで何を買ったか」
 青年「魚、カヌー。人手を借りるときにも使う。そのほか、芋でもバナナでも自分の欲しいものを買う。バナナ二房買うには直径約一尺の石貨を払います」
 私「自分の物を売ってヤップの貨幣を得たことがある者?」??数名挙手。
 私「何を売ったか?」
 青年「豚、バナナ、芋」
 以上は矢内原氏と四十人の村の青年団員の談話である。この話で面白いのは、石貨で物を買った者より物を売って石貨を得た者がはるかに少ないことだ。これは貨幣としての石貨が好まれていないことを意味し、やがて石貨は廃貨の運命にあったことを示すエピソードではないか。
 パラオの帰路、エアー・マイクはヤップ島の空港に立ち寄った。グアム→パラオ経由でやってきた大勢の若い中国女性の団体が飛行機を降り立った。ミクロネシア連邦、ヤップ島の縫製工場の出稼ぎ労働者の一群である。ヤップには、草の腰みのをつけた半裸の女性はいるが、もはや石貨は流通していない。通貨は米ドルであり、この島の縫製工場は、ドルの最大の稼ぎ手だという。
 



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