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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: フジモリ氏への宿提供?私は運命に従っただけ  
コラム名: 時代の風   
出版物名: 毎日新聞  
出版社名: 毎日新聞社  
発行日: 2000/12/03  
※この記事は、著者と毎日新聞社の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この「時代の風」の、これが私がお引き受けする最後の原稿になるので、フジモリ前ペルー大統領が、大統領を辞任して、一私人となられた前後の数日の記録をご報告する。
 私が働いている日本財団は、ペルーとの間で長年にわたって、事業をしてきた。詳しい経緯はインターネットのホームページに詳細に入っているから、興味のある方はごらんいただきたいと願っている。私が会長に着任してからの主なものは、50校の小学校建設と家族計画のための保健所の整備であった。
 私はどこであれ、お金を出したところは、必ず調査するということを財団の方針にしてきたので、私自身今までに2度、ペルーを訪れた。学校の多くは恐ろしく山奥に建てられていた。村一番の立派な建物が、学校という所も多かった。家族計画は主に山間地に住むインディオたちを対象に、既に子供がたくさんおり、夫婦が完全に同意した場合のみ、夫婦のどちらかに避妊手術を行うものであった。
 視察の時、現地まで大統領専用機で連れて行ってくださる、と言われた時、私は初め固辞した。私たちは民間の組織なのだから、普通の飛行機の路線を使って視察に参ります、と言ったのである。しかし、多くの現場はあまりにも遠すぎて、とても1日や2日では住後できない場所であった。飛行機は週に1便あるかないかだし、そこからアマゾンの源流を船で数時間、さらにそこから車で数時間という村も珍しくなかった。大統領は軍用ヘリを使って、そうした場所に自ら案内し、田舎警察の持ってきた傷だらけの車の警察官を追い払って、自分で運転して私たちを新築の学校に案内した。
 そのような出会いが何回かあると、結果として、大統領が来日された時には、日本財団の理事長の笹川陽平氏と私はお座敷てんぷらとか、しゃぶしゃぶなどで会食する習慣になった。高級料亭に行ったことは一度もなかった。
 11月17日の前日、大統領から明晩ご飯を食べましょう、という連絡があった。金曜日の夜のせいか、滞在中のホテルの食堂の席はすべていっぱいだった。財団はやむなく個室を取り、アリトミ駐日ペルー大使夫妻(夫人は大統領の妹のローサさん)を交えて会席料理を食べることにした。その時、日本の地方へ遊びにいらっしゃれるといいですね、という話が出た。
 笹川氏は富士五湖に山の別荘があり、私は神奈川県に35年以上たつ週末の家を持っていた。私がその景色を深く愛し、畑をし、多くの作品の舞台として使った所である。いらして頂いて、新鮮な魚をさしあげたいですね、と私は言った。その時、山と海に2軒の家が、使用可能な状態で存在する、ということは大統領も知られたはずである。既にその時、私は微かな異変を肌で感じてはいた。いつもは付き添ってくる警護の武官の姿がなかった。
 11月20日、大統領は辞表を出されたというが、私は21日になって一般のメディアのニュースを通して知った。午前中のあまり早くない時間に、私はアリトミ大使に電話をかけ、「おやめになって当面のお住まいがご必要なら、私には東京にもすぐ使えるプレハブの家がございますが」とお伝えしておいた。
 その午後、財団で仕事中にアリトミ大使から、電話をほしいという伝言が入った。おかけすると、今晩、ホテルに夕食を食べに来ませんか、ということだった。先日の会食に対する「リターン・バンケットかな」という印象だった。とすれば、お断りする方が失礼に当たる。私はその夜、昔の臨時教育審議会の仲間と会合をしていたが、半分だけ出て、大統領のおられるホテルに回ることにした。
 大統領、アリトミ大使夫妻と食事を頂いている時に、私の家に行ってもいいか、というお話があった。私はいつでもどうぞ、と申しあげた。その時私の方から最初に質問したことは「お出しになった辞表の効力が発生するのはいつですか」ということだった。「2時間10分後です」とアリトミ大使は言われた。つまり22日の午前0時から大統領は一私人になられるわけであった。それならお引き受けしよう、と私は思った。しかし、このマスコミの包囲の中を、どのようにして出られるのか、私には見当がつかなかった。
 私は数室離れたところにあるSPの部屋に赴いて、大統領のご意向を伝え、前大統領、つまり一私人となられた方の警護はどうなさいますか、と質問した。私はSPに、直接大統領に会ってご意思の確認をし、移動の日時、方法などをお話し合い頂きたい、と言った。実は私は「少しアタマのおかしい人間」と思われることを用心していたのである。
 警護側の質問も、冷静なものだった。大統領が解任された(その時はまだ誰も罷免とは思っていなかった)ということは、どうして証明されますか、とSPは尋ねた。「向こうのテレビが発表するでしょう」と大使は言われた。しかし、SPは「テレビだけを信頼することはできません。どこからそれを証明する文書が出ますか」と言った。大統領は、ペルー政府から送られてきて外務省に提出される書類の写しを渡すと言われた。
 ホテルを去られる方法については、私は関知せずにホテルを出た。明日まで状況が変わらず、家においでになるなら、私の仕事が終わって自宅に帰る午後3時以降お待ち申しあげます、とだけ言いおいた。
 「脱出作戦」と言うなら、それは静かに予定通り行われた、と言うべきなのだろう。
 明らかなことは、私はフジモリ氏が大統領ではなくなった時点で家にお迎えしたということだ。リマの日本大使公邸人質事件の時、一人の日本人の犠牲者もなく全員生還できたことに、私たちは感謝を忘れるべきではない、と私は思っている。
 また私は「その時たまたまその場にいた」から、運命に従った。それ以来、私は大統領をかくまったことは一度もない。誰も尋ねなかったうちは、私は黙っていた。しかし、最初に訪ねてきた新聞記者には「はい、いらっしゃいます」と明確に答えた。逃げも隠れもするつもりはない、というのが、フジモリ氏のご希望でもあったからだ。
 



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