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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 中央アジアの草原にて(1) 青の都・サマルカンド  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/06/29  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ウズベキは緑カザフは灰色
 一九九九年、五月の日曜日。早朝六時。ウズベキスタンの首都タシュケントのホテルから車で、“イスラム世界の宝石”と称せられるサマルカンドに向かう。気温十三度、快晴。この時期のウズベキスタンは、もう夏なのだが、爽やかで快適な朝だった。それは異常気象のなせるわざだった。
「五日前に時ならぬ寒波に見舞われ、夜は氷点下五度。この国の農地の八〇%が、霜にやられた」
 そう教えてくれたタシュケント国立大学の副学長アレクメドフ氏から、この日は郊外の村で彼の知人の結婚式があるからと誘われていたのである。「村人が千人も集まるウズベキ族の結婚式をぜひ見ておけ」という彼の勧めをあえて断って、サマルカンド行きを決めたのは、「西域の花の都の跡」に足を踏み入れたかったからだ。
 機中(韓国のソウルから七時間)で読んだ英国のガイドブック『CENTRAL ASIA』に、紀元前四世紀この地に遠征したアレキサンダー大王が「話に聞いていたとおり美しい。いやそれ以上だ」といったとある。もっともこの都は十三世紀、チンギスハンによって地上から抹殺されたが、それを見事に再建した「西域」の中世イスラム文化とティムール帝国とはいかなるものであったのか??。それをこの目で確かめたい気持ちに駆られたのである。
 タシュケントから三百キロ、シルクロードの車の旅である。「イスラム過激派のテロ事件の余波で、道中SECURITY CHECKで難儀するといけないから……」と副学長氏の配慮で、通行証代わりに教育大臣直筆の手紙を持ったイルマトフ教授をつけてくれた。棉、麦、茶の花、ポプラ、桑、白樺……ロバ、牛々、馬々、羊々……。旧シルクロードの舗装道路の両側には幅三メートほどの水路が通っており、豊かな緑がある。
 西域のオアシスとは、砂漠に水を引き、木を植えた人工の緑化地域をいうのだが、このあたりは、シルクロード沿いに「帯状のオアシス」が果てしなく続いている。
 シルダリア河を渡るとシルクロードは約十五分、緑が途絶え、道路サイドに灰色の景色が展開する地点に入る。ここだけカザフスタン領が、ウズベキスタンの中に食い込んでいるのだ。地図で改めてみると平坦な砂漠になぜ、カザフスタンが突出しているのか。中央アジアに国境線を画定したのは、一九二〇年代のスターリンであり、それまでは国境はおろか「民族国家」の概念もなかった。
「なぜ、カザフが?」と同行のイルマトフ氏に聞いたのだが、英語がよく通じない(中央アジアの国際語はロシア語である)せいか、「ウズベキは緑、カザフは灰色」という答えが返ってくるだけでいっこうに要領を得ない。「多分、地図上に赤鉛筆で国境の線を引いたスターリンの指が滑ったのだろう」と言ったら、キョトンとしていた。
 実はこの説、でっちあげの軽口ではなく、ちょっぴりだが根拠がないわけではない。数年前、モスクワからサンクト・ペテルブルクまで夜行特急に乗ったことがある。そのとき、案内の元KGB氏から聞いた話を思い出したのだ。このロシア初の鉄路はツンドラ地帯を一直線で走っているが、一カ所だけ、不自然にコブ状にレールが曲がって敷かれている地点がある。ピーター大帝が地図上に赤鉛筆で直線を引いて鉄道建設を命じたのだが、定規に親指が触れてしまい、変テコなカーブができた??というウソのような本当の話だ。
 絶対的権力の下では、「さわらたたぬ神に崇りなし」。無理が通れば、道理はひっこむのであり、合理的思考も通じない。それがこの謎の国境線の真相であったのかもしれない。七世紀、玄奘三蔵が仏教の教典を取りにインドをめざす途中、まさに同じ道路をサマルカンドに向かっている、そのころのシルクロードは、あくまでシルクロードであり、ウズベキとかカザフなどという概念はなかったことは言うまでもない。
  
スターリンのティムール観
 そんなことにあれこれ思いをめぐらしつつ四時間、山の峠を越えると緑の盆地、サマルカンドである。ここで、幸運にも超一級のガイドにめぐり会う。彼の名はアレクサンダー・カルーズィン。四十歳。もともと建築家だが、仕事がないので観光ガイドをやっている。BBC放送ばりのきれいな英語を話す。
「サマルカンドの現在の人口は六十万人。ウズベキスタン第二の都市。紀元前にソグド人(イラン系の農耕民)が開いたオアシスで、彼らは商才と工芸技術に長けていた。ところが一二二〇年、モンゴル軍の侵攻で人口の四分の三は殺され、都は消滅した。これをよみがえらせたのが、十四世紀のティムール王で、その当時でも四十万人が住んでいた……」。定番のガイドをさえぎり、こう言った。
「私の旅の目的。それはあなたのティムール王の評価を聞くためです」と。ティムールはチャガタイ汗国の旗本の家柄で、遊牧のトルコ・モンゴル族の軍団とイラン系イスラム文化を合体させた男だ。一方、アレクサンダーは100%ロシア系で、彼の祖父はソ連の植民地時代のサマルカンド大学に、モスクワから経済学部長として派遣された人だ。ロシア人種は歴史的いきさつからいって、ティムールが好みではないのでは、と思ったからだ。
「彼は、サマルカンドを囲む山に生まれたギャングの親王。三十五歳のとき、この街にやってきた。仇名はTHE TERROR OF EAST AND WEST(東でも西でも恐怖の男)。かつ戦争の名人だった。でも、サマルカンドを占領し、モンゴル帝国の再建とイスラム教の伝播を旗印に、絢爛たる都に蘇生させた」。やはり、功罪相半ばの辛口の評価が返ってきた。
 彼のお勧めは、グリ・アミール(支配者の墓)廟と、アルグベグ天文台跡だった。支配者の廟は、一階は墓のコピーで、地下に本当の墓がある。彼の顔パスで異教徒禁制が建前の本物の墓に入った。コーランの読経のなか、巡礼者たちの頭越しに、六つの石棺が見える。中央がティムール、その頭の位置に彼のSPIRITUAL FATHER(尊師)ベリケの棺。
「ティムールはオーラを発する天性の偉人だったが、残念ながら文盲だった。だから、この人の功績は大で、一緒に葬られている」とアレクサンダー。
 彼の話は実に神秘的だった。「スターリンの命令で墓をあばいたんですよ。一九四一年六月二十二日でした。モスクワの学術調査団が棺を開いた十分後、突如として、ヒトラーが、キエフ(ウクライナ)、ミンスクを爆撃、独ソ戦が始まった。〈私の墓を永遠に暴くな。そんなことをしたらこの地球は震えあがるぞ〉とティムールの遺言が石棺に書いてあったのに……」というのだ。
 独裁者スターリンは、ティムール朝の独裁者に異様なほどの関心があった。それに白骨を白目のもとに晒しウズベク人のティムール崇拝を阻止しようという意図もあったともいう。彼は右脚が不自由な身障者であったことが証明された。
  
三百六十五日六時間十分八秒
 この話には、さらにおまけがついている。彼の神格性を暴き、単なる残虐な王であったことを実証? する学術調査を二年もやった後、棺に戻した。その数日後、スターリングラード侵攻のドイツ軍が百万人の死傷者を出し、ソ連赤軍に降伏した、スターリンとソ連嫌いのウズベク族は、この話が大好きだという。
 ティムールの孫、ウルグベグ王は、花の都サマルカンドをイスラム文明の壮麗さと学芸の中心地に発展させた。その象徴が、ウルグベグ天文台跡だ。地下十一メート、高さ三十メートの建物だったというが、地下部分だけ残っている。
 科学は、時には宗教の敵である。「科学をきわめすぎると神の存在が否定される」と危惧した正統派イスラム教徒の差し金で、彼は暗殺され、地上部分は破壊された。ウルグベグは、地下に巨大な大理石製六分儀を建設し、千十八個の星の位置を何年も観測し、一年の長さを計算した。
 望遠鏡なしの肉眼である。一年は三百六十五日六時間十分八秒と推計した。ちなみに現代の科学では、三百六十五日六時間九分九秒である。驚くべき十五世紀の西域イスラム文明ではないか。
 だが十六世紀以降、西域は長いたそがれの季節に入った。欧州の台頭による大航海時代の海上貿易の進展により、シルクロードの重要性が失われたからだ。「世界史」で、日本の知識人の一番弱い部分は、イスラム世界、とりわけ「西域中世史」であるのは、この歴史的事実と無関係ではないように思われる。
 ロシア離れした独立国、ウズベキスタン共和国は、首都タシュケントのヘソともいうべき広場から、ソ連のお仕着せのカール・マルクス像を撤去し、巨大なティムールの像を建設、「国父」と定めた。一九九三年。この国に遅まきながら、ルネサンスが訪れたのである。
 



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