共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ポーランドの秋(中) 「ヨーロッパ中世」を実感する  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/04/10  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 丸ごと文化遺産のクラクフ市 ≫

 ワルシャワから、クラクフに向かう。クラクフは中世都市の「貴重な典型」だといわれる。ヨーロッパ中世とはいかなるものだったのか。それを実感するのが、旅の目的であった。日本財団は、この町のヤゲロニア大学(ポーランド語ではヤギェウォと発音する)に、奨学基金を提供している。それがご縁でクラクフを訪ねたのだ。「ポーランドの京都」と日本の観光案内書にある。

 ポーランドの地図を開く。北のバルト海からヴィスワ川が、中央平原を大きく蛇行している。グタニスク?ワルシャワ、そして南のスロバキア国境のカルパチア山脈が展望できるクラクフまで通じている。

「川を遡行すれば行けるじゃないか」と言ったら、「それは中世の話だ。今は船便はない。でも鉄道がある」と大学からワルシャワまで迎えに来てくれたアンドレ・カピスゼウスキー教授が苦笑した。二〇〇〇年十月の早朝、ワルシャワ中央駅から、クラクフ行ノンストップ特急に乗る。

 車窓の秋が美しい。ポーランドとは平坦な地、つまり「野の国」「畑の国」という意味だと教授が言う。見渡す限り畑地、麦の切り株が点々と残っている。もう麦秋は終わっていた。夏の車窓なら、黄金色に波打つ麦畑が果てしなく広がっていたことだろう。

 田舎町の駅を通過する。町の周辺には花や野菜の温室栽培のハウスが、並んでいる。「どこまで行っても平坦だろ。だから、ヨーロッパで戦争が起こると、騎馬隊や戦車隊によって侵略された」とアンドレ教授。森の樹木が黄葉している。

 “紅葉”ではなく“黄葉”である。この国の樹木は、めったに紅くならないものらしい。田舎道を野菜を積んで行く馬車、古い木造の教会、運河をたゆとう小舟etc。「これが現代の農村か」とこの目を疑いたくなるような中欧の田舎の秋だった。

 午前七時三十五分、ワルシャワ発の特急は、十時十分、クラクフ中央駅に着く。ホテルの売店で、ポンチ絵を一枚求める。画面には中世の城壁に囲まれた二つの都市が並び、周囲をヴィスワ川の支流と運河が囲んでいる。城壁の中には、それぞれ教会の塔や三〜五階建ての石の家がぎっしりと建ち、城壁には幾つもの見張台がしつらえてある。

 この二つの都市は川で隔てられているものの、城門同士跳ね橋で結ばれている。不必要な時は、綱で吊り上げておく仕掛けだったのだろう。絵の説明書きには「十五世紀後半のクラクフとカジミエシ。一八二〇年まで、別々の城壁都市だった」とあった。

 この町を散策してみて、この絵が実にうまく書けていることがわかった。中世のヨーロッパの町のたたずまいはかくありき。臨場感満点だった。すり減った石畳、黒ずんだレンガ作りの建物と城壁、大聖堂の黄金のドーム、青銅の尖塔、本物の「ポーランド中世」が、秋の黄葉に映えていた。この都市は第二次大戦の戦禍を珍しく受けなかった。そこで一九七九年、何千軒の建物と道路と広場が町ぐるみ、世界文化遺産に指定されたという。

 クラクフは、十世紀から約六百年間、ポーランドの首都だった。私の訪問先、ヤゲロニア大学(ヤギェウォ大学)も、学校の建物、キャンパスのすべてが世界文化遺産とのことだ。ヤゲロニア王朝(一三八二〜一五七二年)が創った大学だ。

 この王朝の領土はいまのポーランドより広大で、欧州最大の王国だった。十五世紀の代表的なゴシック建築といわれるこの大学の博物館。玄関を入ったら黒髪を長く肩に垂らし、金の冠をかぶった貴婦人の油絵と対面した。王妃ヤドヴィガの肖像だ。

 大学の名称は王の名であるヤゲロニアだが、実際の創立者は、王ではなく、王妃である彼女だというのだ。ここで面白い話を聞いた。王妃ヤドヴィガはポーランド人で、王は、入り婿だ。そのいきさつが傑作なのだ。

 

≪ ヤドヴィガ王妃とヤゲロニア大学 ≫

 クラクフの城壁の家臣たちは、版図を広げるべく、異教徒で熊のように全身毛むくじゃらな“北の隣人”との結婚を画策した。それがリトアニアの大公、ヤゲロニアで、結婚の条件として提示したキリスト教への改宗を快諾してくれた。王は三十六歳、王妃が十四歳であった。ところが幼い彼女は尻込みした。「大公は巨大な性器の持ち主で、女性の体はダメにされる」とのウワサが立ったからだ。家臣の代表が、入浴の図を実況見分するべくリトアニアに派遣された。結果は「並」との判定が下り、めでたく結婚に漕ぎつけたそうな??。

 ヤドヴィガ王妃は私財を投じ、クラクフのアカデミアをパリ大学を手本として大学に改組、それがこの中世欧州の名門、ヤゲロニア(ヤギェウォ)大学であった。

「ドイツ最古のハイデルベルヒ大学よりも二十二年歴史が古い」と教授のアンドレが胸を張った。「POPE(ローマ法皇)も、コペルニクスもこの大学の卒業生だ」という。大学の構内はクラクフの観光スポットで、毎日、大勢の旅行者が見学にやってくる。

「ヨハネパウロ二世は哲学部国文学科に入り、演劇に熱中していた。ナチス・ドイツの占領下、劇団の一員として地下活動をしていました」。アメリカ人の観光団に、英語のガイドが大声で解説していた。「エッ。本当?」「POPEが神職を目指したのは、一九四二年、二十二歳の時、神学部に転学したのだ」と教授が言う。POPEはその後、クラクフ司教として半生を送ったのち、一九七八年、四世紀ぶりのイタリア人以外のローマ法皇に選出された。

 大学の校舎の木立の中に、天球儀をかかえ持ったコペルニクスの銅像が立っていた。一九〇〇年の作だという。彼も大学の同窓生で、一四九一年に入学、神学と医学、のちに数学と天文学を学び、クラクフの教会の司教になった。

「これがコペルニクスの使った地球儀よ」大学付属の博物館を案内してくれた学芸員女史が指さした。

「よく見てごらんなさい。何かがわかるはずよ」と謎めいたことを言う。よくよく眺めたら、この地球儀にはインドと中国らしきものはあったがアメリカ大陸が書かれていなかった。コロンブスのアメリカ大陸発見の数年前の地球儀だった。

 コペルニクスは一五三〇年、臨終の床の中で『天体の回転について』を刊行した。題は「天体の回転」であっても、内容は天体が動くのではなく、地球が動く“地動説”の展開だった。これがもとで法皇庁の逆鱗に触れ、彼の遺体は墓に埋められるのを禁じられたという。

 片やローマ法皇、此方は異端の天文学者。現職と古人の違いはあるとはいうものの、仇同士の大物が同じ大学の卒業生であったとは……。ヨーロッパ中世に創立された大学ならではの歴史物語だ。

 

≪ 太陽を停めた男、コペルニクス ≫

 土産にもらった『ヤゲロニア大学六百年史』を拾い読みしていたら興味深い叙述にぶつかった。「コペルニクスの像は、大学の中庭の真ん中に立っていた。ところがその後、校舎の端(人目につきにくい)に移設された。この引越しについては色々と取り沙汰され、皮肉っぽいコメントが続出した。そのひとつがこれだ。“彼は太陽を停め、地球を動かした。ポーランド国は、彼をこの地において生を与えた。ところが、わからず屋どもが、彼を森に捨ててしまった”と。でも今では銅像のある場所は大学構内で最も輝かしいスポットになっている」とあった。

 この文章は、極めて抑制された表現なので、中世キリスト教の門外漢にはちょっとわかり難い。なぜ中世の教会はコペルニクスの地動説を危険視したのか。それがわからないとこの文章の意味は解読不能だろう。

 答はこうだ。当時のキリスト神学者は、古代ギリシャのアリストテレスの自然科学を使って理性と論理で神の存在証明をしようと試みた。「アリストテレスは万物には、動かし手がいるといったが、それが天のかなたにいる神である。毎日、昼と夜があるのは、太陽や月がくっついている天球を神が動かしているからだ」と唱えた。これが天動説であり、神の存在証明の学説として中世のキリスト教会に定着した。

「だから地動説は神の存在の否定につながる。ね、そうだろう」。その夜クラクフの古いレンガ造りのレストランで催された宴席で、私はコペルニクスの銅像の引越しについて、こうダメ押しをした。「その通り。それをスコラ哲学という」。隣席のローマ中世史が専攻だという歴史科教授が、相槌を打ってくれた。

 赤ワインを酌み交わしつつ彼はこう言った。「中世は暗黒時代じゃないよ。ヨーロッパという地域が発生したのも、欧州文化の核心が形成されたのも、大学というものが誕生したのも、みんな中世だ」と。

 世界史でろくに学習しなかった中世ヨーロッパ??それは現代ヨーロッパの原型であり、ことのほか奥が深い。ポーランドの「京都」での私の実感である。
 

ヤングリーダー奨学基金プログラム(SYLFF)について(東京財団のホームページへ)  


日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation