共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 歌川 令三  
記事タイトル: パリ雑記(中) 「聖アンナ」路のラーメン亭  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/06/01  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  パリの「小僧の神様」
 パリの春の宵、そのラーメン亭を探すには骨が折れた。店がパリの路地裏でひっそりとやっていて、なかなか見つけ難かったのではない。後刻わかったのだが、旅行案内書にもある、結構、有名な店だった。
 ホテルから電話で、店の主人、平田建州氏と懇談する約束をとりつけ、住所を尋ねた。「ル・サンターヌ三十二番地」だった。ついでにフランス語の綴りを教わっておけばよかったのだが、私の生兵法と早合点が、災いした。
「なるほど、聖者の名前をとった道路か。パリには、ST(聖者)ではじまる通りが多いんだな」と思ったまでは正解だった。そして、メモ用紙に「32 RUE ST ANTOINE」と書いた。花金のパリ。やっとつかまえたタクシーに、メモを渡した。
 オペラ座大通りから分岐する裏通りだと平田氏に聞いていたのだが、様子がおかしい。車はバスティーユ広場に向かっている。「ボアラ」(ここだ)と言われて降ろされた。「ST ANTOINE」。道路標識にはちゃんとそう書いてある。だが三十二番地には、ラーメン屋ではなく、電話ボックスがあった。
 志賀直哉の小説「小僧の神様」の状況に迷い込んだのだ。そう悟るには、それほど時間がかからなかった。
 品のいい紳士に屋台のすし屋で、代金を肩代わりしてもらった無銭飲食の丁稚奉公の小僧。もらったメモを頼りにお礼に行ったら、そこにはお稲荷さんの社があった。小僧はあの紳士は神様だったに違いないと思った??そういう筋書きだ。でも、パリではラーメン屋変じて電話ボックスとは……。
 おのれの早合点に苦笑する。待つこと久し、電話ボックス前でタクシーが客を降ろした。さっそく乗り込む。珍しく英語のわかる運転手だったので救われる。
「日本レストランが何軒かある通り」といったら、やっと通じたのである。
 聖アンナ路のラーメン亭、「ひぐま」の主人、平田氏は、店の一番奥のテーブルで約束の時間に一時間遅れの私を、商売物の冷や奴とレバニラいためを肴に独酌でまっていた。遅刻の弁解かたがた「小僧の神様ではなく、パリには悪魔が住んでいる」といったら、「聖女と聖人の取り違えですよ」と破顔一笑。
「ここはSTE ANNE(聖女アンナ)、あなたの行ったところはST ANTOINE(聖アントニオ)だ」という。パリとは本当に意地悪にできている。
 でも、パリ人にとってはまぎらわしくないらしい。いやらしい街だ。
 平田建州。一九四四年生まれ東大法学部卒、五十五歳。十一年前、四十四歳でJR東海副営業本部長で突如脱サラ、脱日本に踏み切った。
「パリでラーメン屋を開く」といっても、同僚も先輩も真面目にとりあってくれない。思案の末、「女房の実家の不動産会社の跡継ぎをする」といって、JRに渋々納得してもらった。それから十一年、彼の店「ひぐま」は、パリで最も安く、最ももうかっている店との評判をとった。
 私にとっては、何度来ても不親切でいやらしくて、好きになれない街パリ。そこでフランス人の味の心をつかみ成功を収めた日本人とはどんな男なのか。それが知りたくて、ある国際会議出席のため二泊三日のパリ滞在の機会に、会見を申し込んだのだ。
 
「ひぐま亭主人・平田建州」
「酒、いけるんでしょう。レバニラいため食べますか。ラーメン何にします。塩、しょうゆ、みそ、すべてありますよ」と彼。そして、「エッ。塩ラーメン、ですか。塩ラーメン注文する人、こわいんだよね」と続ける彼。
 平田氏によれば、しょうゆや、みそ味でごまかせないから、スープの味覚をしっかりと吟味されてしまうからだという。
「下地はトリのガラと豚骨、ネギとニンニク、セロリも入っている……」とはったりをかませたら、「まあ、それだけじゃないですけどね。中身は秘密。味の素は使ってないけど」と言う。
 店名の「ひぐま」、どこかで聞いたような気がする。
「札幌すすき野のラーメン横丁に同名の店がある」。そう言ったら、「そう。それです」と彼。
 平田氏は国鉄時代の若いころ、札幌鉄道管理局の人事課長をやっていたという。当時、SLは廃止されていたが、機関区はSL時代そのままになっていた。機関車労組の力が強くて、機関区の統廃合が思うにまかせなかった。
 彼は、連日連夜の団交の末、ようやく函館機関区の廃止を勝ちとった。そのころ、独身だった彼は、数人の部下の慰労をかねて、深夜、すすき野界隈を徘徊、仕上げはラーメン横丁と決まっていた。「あのころ、“ひぐま”のラーメンが日本一でした」と平田氏。
「でも、今はうちのラーメンが、世界で一番だと自負しています。北海道の“ひぐま”のラーメン、このごろ、味落ちたみたいですね」という。
 労組と闘った彼の国鉄エリート学士としての青春の思い出、それは北海道の“ひぐま”ラーメンの味と香りに凝縮されていたともいえる。このあと、平田氏は、国鉄パリ事務所に三年間勤務した。なぜ、旧国鉄にパリの事務所があるのか。
「第一次世界大戦前、世界鉄道連合の本部がパリにあったから……」だというのだ。
「フランス人は知恵者なんですよ。多数決民主主義のやり方についても、ずるいほどよく知っている。議長国にすぐなりたがる。議長になれは、多数をうまくコントロールできるからね。だから、鉄道の国際連合の本部をパリに誘致した。日本は利口じゃないです。ODAで外国にハコモノばかり寄付して……」
「そういう日本にいや気がさした?」
「そんな大ゲサな話じゃない。セ・ラ・ヴィです」
「それが人生さ」と突っぱられると、彼の転身の動機追求のホコ先が萎えてしまう。話題を変える。
「ときに、麺も純粋フランス製ですか」。彼は、能弁の平田氏に戻った。「フランスの小麦は高品質です。欧州髄一の農業国ですから……」。問題はラーメンに特有のにおいをつけ、麺の腰を強くする「干水」だという。苦心の末、化学方程式を手に入れ、パリの薬屋で化学的成分を買い集め、自分で純粋パリ製の干水を調合した。
 
「ミソラーメン四十フラン」
 店内は、五十席ほどのテーブルがほとんど満杯であった。
「客の八○%はフランス人です。なぜフランスでラーメンか。日本人の舌は世界一で、ラーメンは百年かかって開発された日本の現代食の傑作です。日本人にとってウマイものは、フランス人にとってまずいはずがない、と思った」
と平田氏。彼の食物哲学は正しかったのだが、フランス人の舌を調教するには時間がかかったという。
「フランス人は全員ネコ舌です。しかもラーメンはスープだから、音をたててはいけないと思っている。音なしで熱いラーメンがすすれますか。だから、フランス人は、ギョウザと中華丼から入り、最後にミソラーメンに到達した。ケチな彼らにとって、安さも魅力だった。ラーメンは四十フラン、このうち付加価値税が二〇%だから、正味、六百四十円です」
 アベックで週に二、三回やってくるパリ人の常連も大勢いるとか。
「食文化はフランスにしかない、とかなんとか言うくせに、パリ人も案外物見高い」と言ったら、「パリ人は、本当は外国に異常な関心がある。三宅一生やケンゾーがなぜパリでもてはやされるのか。ラーメンも同じ日本文化です」と。
 平田氏の店の開業資金を貸してくれたのは、目と鼻の先の角地に店をかまえる東京三菱銀行ではなく、日本食ビジネスの将来性を買ったパリの銀行、ソシエテ・ジェネラルだった。
「パリでラーメン屋のおやじになる。充実した人生かと問われれば、“然り”としか言いようがない。いつも店を閉めてホロ酔い加減で家路につく。満月のエッフェル塔、吹雪に光るエッフェル塔、雪におおわれたエッフェル塔が毎夜私に何か語りかけてくる。そんなとき、俺の青春の思い出がパリで結実したんだとつくづく思う」
 この夜のパリの日本酒は、“よい二人酒”であった。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation