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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: カムチャッカ旅行記(4) アバチャ湾でホッケを釣る  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/11/23  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  鳴呼、占守島
 せっかくカムチャッカまで出かけたのだから、なんとしても足をのばしてみたい島があった。占守島である。
 ここは、カムチャッカ半島の南端のロパトカ岬から目と鼻の先、南西十二キロにある淡路鳥程度の大きさの島だ。少数のロシア漁民が住んでいる。アメリカ発行のガイドブック(日本にはカムチャッカの旅行案内書はない)には載っていない、旅行者の死角のスポットであった。
 だが日本人の私にとっては北方四島と並んで、ぜひ訪れてみたかった島だった。北緯五〇度四〇分、千島列島の北端に位置し、かつては日本の最北の領土であった。一九四五年八月十八日、この島を舞台に、北辺の守備についていた日本陸軍第九一師団とカムチャッカ駐屯のソ連軍との間に、大戦闘が展開されたのである。この闘いは、八月十五日の日本のポツダム宣言受諾三日後に発生したもので、戦争は終わっていたのに、領土獲得をめざすソ連軍はなお戦闘をやめずに、突如、八千八百人の大部隊で侵攻してきたのである。
 プロレスでいえぱ、終了のゴングが鳴った後のリング外の乱闘のようなものだが、この戦闘で、日本軍はソ連軍に死者二千人の損害を与え(日本軍の戦死者は三百人)、勝利をおさめた。たった二日間の自衛のための戦闘だったが、当時、日本敗戦のドサクサまぎれに北海道にまで実効支配の手をひろげようとしたスターリンの領土的野望を考慮に入れると、この島での抗戦によって、その出鼻をくじいた戦史的意義は特筆に値するのではないか。
 あれから五十四年後の八月。背の低い北の夏草の丘で繰り広げられた強者どもの戦いの跡をこの目で確かめたかった。カムチャッカでの三日間、早朝から、その機会を待った。州都のペトロパブロフスクから百七十キロ。ヘリコプターならひと飛びである。だが、北の海は来る日も来る日も「視界不良」で、カムチャッカ旅行ツアーの目玉であった占守行きは、結局、話だけに終った。
 占守戦史の記録によると、私たちのカムチャッカ滞在の最後の日、ペトロパブロフスク港の天候は、あの戦闘の行われた占守と同じように、小雨まじりの濃霧であった。占守をあきらめて高速船で、アバチャ湾から北太平洋へ、岩礁の海を周遊した。せめて、天候だけでも占守の“疑似体験”したいとの思いもあったからだ。
 とにかく寒い。
「寒いか? ロシアのコトワザを教えてやろう。寒いのは天気が悪いからではない。たくさん着ればよい。天気のせいにするな。カムチャッカには悪い天気というものはない。たくさん着れば天気はいつもいいのだ」
 中年の船長、セルゲイ・ミハイルは、私に哲学者じみた訓示をたれた。そして潮のにおいのきつい革のハーフコートと帽子を船倉の私物入れからひっぱり出して、貸してくれた。船名は「タイフン(台風)号」。元ソ連海軍の魚雷艇を改造した高速艇で、百四トン。二千三百馬力のエンジン三基を搭載、二重底になっており安全性抜群とのこと。「台風でも出航できる。波高九メートまでは大丈夫だ。救命胴衣は八十人分積んである。ロシア海軍用だからね。海に放り出されても救命胴衣の防水と保温性は高く、水温五度の海でも二十時間は生きていられるよ」。ミハイル船長が物騒なことを言った。
  
入れ、引っ掛け?
 霧深し。視界三百メート。「プチャーチンも高田屋嘉兵衛も、この港から出航したのか……」などと、甲板で感慨にふけっていたら、「アリューシャン列島、キスカ島の日本軍の整然たる霧中の撤退はかくのごとし」と、背後から声がかかった。戦争オタクと言ったら失礼に当たるが、『アメリカはなぜベトナムに勝てなかったか?』など、多数の著書のある旅仲間、戦史家の三野正洋さんだった。
 絵はがきで見たスリ鉢を逆さに伏せたようなアパチャ湾の絶景、「カムチャッカ富士」は残念なことに見えない。プトロパブロフスク港に向かう貨物船三隻と、漁船一隻と出合う。通訳のアレクセイ君の話では「韓国漁船がよくやってくるんですよ。先日、領海侵犯で一隻捕まり、裁判中だと新聞が書いていました」とのことだ。
 無人のスターリチコフ島付近で停船した。「皆さん。釣りをやろう!」と船長が号令をかける。「魚はたくさんいるぞ」と自信たっぷりだ。「タイフン号」には、船長ご自慢の日本製魚群探知器がついており、スクリーンには魚の大群の存在を示す真っ赤な面面が展開している。「海底から十メートに厚い魚の層が幅広く重なっている」。航海士のエフゲーニ君がそう解説する。
「入れ食い」。この言葉は釣りをやる人にとっては、よだれの出るような状況のことだが、さすがは魚群探知器、「入れ食い」どころか、「入れ引っ掛かり」であった。太めの釣り糸に、エサようのもの(最初は魚の切り身を針につけたのだが、それも面倒になって色のついたプラスチック片を針につける)を装着して、十五メートも降ろす間もなく、ズシーンと手ごたえがくる。糸を巻き上げたら、一匹、二匹、時には四匹も一挙に引っ掛ってきた。決して誇張ではない。本物の魚の付いた鯉幟をぶら下げている??という表現が一番ぴったりとくる。
 体長三十五センチから四十五センチ。何やら、タラのようでもあり、ホッケのようでもある。「日本で」は下賎な魚とされているが、縞ホッケだよ」。私の長年の取材先であり、かつ友人でもある的場順三さんが、そう教えてくれた。脂がよくのっている。開いて一夜干しにすると、珍味この上ない。日本のデパートで買うと、一尾五百円から七百円するという。
 ゴムボートに三々五々分乗して岩礁見物に出かける。未練がましく「占守島」の方位に目をこらしたのだが、見えるわけがない。赤いクチバシのエトピリカが舞う。「飛ぶのが下手なので、この付近にはあまり来ない」と片言の英語で船員がいう。ウミガラスが水面すれすれに低空飛行する。魚をねらっているのだろう。「オイラン島」という名の岩礁は、さながら鳥たちの“高層ワンルーム・マンション”だ。高さ十五メートほどの岩の島は、波の力で横並びにいくつもの穴が開けられており、その中でそれぞれの階ごとに鳥が棲み分けをしている。一階には海鵜、その上にはピリカ、そしてウミガラスたちが……。屋上では翼を拡げたら一メートはあろう海鷲が一羽、周囲に睨みを効かせている。
  
洋上の酒盛り
「海鷲はFISH EATINGだ。他の海鳥を食べない。だから小さな岩礁に共存できる」と若い船員がいう。アザラシの群れが魚を追っている。口笛を吹くとゴムボートにあと三メートの至近距離まで近づいてきた。元魚雷艇の観光船に戻る。ミハイル船長が、甲板で釣果の縞ホッケとヒラメの刺し身(といっても、ナイフで切り刻んだブツ切り)を作っていた。通訳のアレクセイ君の持参した日本人観光団の置き土産たという醤油と練りワサビをかき混ぜて、手づかみで酒盛りが始まる。手持ちのウオッカ、ウイスキー、ブランデー、日本酒の残りを持ち寄ったのだが、縞ホッケなるものを刺し身で食するのは、空前にして、かつこれが絶後の経験だろう。船長にも「一緒に食べろ」と誘うと、一番小さなブツ切りを一つたけつまみあげ、醤油をどっぷりとつけて、目をつぶって口の中に放り込んた。ロシア人は、生魚がよほど苦手なのだろう。
 この日の釣果は、縞ホッケ約百八十尾、平目約二十尾。船員たちがダーチャに持ち帰り、冷凍にして冬の蛋白源にする。余りはバザールで売るのだという。船上の酒盛りの話題は、「占守」と「北方領土」であった。戦史家の三野さんの解説では、「スターリンは、ポツダム宣言は、条約ではないことを百も承知だった。だから、アメリカ軍が、千島列島の八つの大きな鳥に駐屯する日本軍守備隊の武装解除に出動する前に、武力行使をして事実上のソ連領にしてしまう。それが占守戦のねらい」だという。同じく戦史家でもある日下公人さんが続ける。「ソ連は時間との闘いだった。占守戦なかりせば、北海道もソ連に奪われていたかも……」と。
 アレクセイ君がこう言った。「私、クリール(千島)もサハリン(樺太)も、もともとソ連のものだと高校で教わっていました。帝政時代日本がそれを武力で奪ったので、社会主義ソ連が奪い返したのだ??と思い込んでいました」
 安政年間の千島樺太交換条約で、日本が正当に全千島(北方四島は北海道に属しており、もともと、日本領)を領有した歴史的事実は、彼が信州大学に留学中、初めて知ったという。
 占守守備の第九一師団の勇士たちは、ソ連人も恐れる極寒のシベリア、マガタン州で強制労働に徴用された。戦勝のシッペ返しであったのかもしれない。
 



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