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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 中央アジアの草原にて(3) 「民主」という名の“王国”トルクメニスタン  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/07/27  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  アシュガバードの雨
 ウズベキスタンの首都タシュケントから飛行機で五十分、トルクメニスタンの首都アシュガバード(トルクメン語で愛の町という意味とのこと)に入る。五月の初めは、この国では、もうとっくに夏である。盛夏の七月には、五十度にもなり、「車のボンネットの上に卵を落とせば、目玉焼きが作れる」と出迎えのトルクメニスタン国立大学の経済学主任教授ハローバ女史が言う。「でも、あなた方は幸せ。今日は時折雨で涼しい。この時期に雨があるなんて珍しい」のだという。
 持参した、英国の旅行案内書『CADOGAN』には、トルクメニスタンは、「月の砂漠と死せる山の国」とあった。そういう国に初めて訪れたその日に、日本の常識でいえば、太陽がしっかりと照りつけるなかの、ほんのお天気雨に過ぎないのだが、アッラーの神(この国の宗教はイスラム教のスンニ派)の贈り物と感謝すべきなのだろう。
 ところで「トルクメニスタン」と言ってもわれら日本人にはなじみがない。「トルキスタンとトルクメニスタンとどこが同じで、どこが違うのか?」の問いには、「西域」の専門家でなければまず答えられまい。そういう私も、この国を訪れるまでは、いまひとつあやふやだったのだ。「トルキスタン」とは帝政ロシアの命名で、トルコ系遊牧民の土地という意味だ。革命後、スターリンが、トルキスタンを五つに分割した。そのひとつが現在の「共和国、トルクメニスタン」で、ソ連邦時代は「トルクメン・ソヴィエト社会主義共和国」と名乗らされていた。
 この地域はもともと部族の集まりで「民族国家」という概念はなかった。だから「トルクメン(トルコ人)とは「俺のことか……?」とこの国テケ(TEKKE)族など他国の支配に強く抵抗した自由の民である五つの部族は、突如としてソ連がやった国境の線引きに驚いたことだろう。だが、彼らにとって悪いことばかりではなかった。アシュガバードは、イランに抜けるシルクロードの支線にあるオアシスで昔から緑があったという。その緑がソ連の一共和国に組み込まれたことによって、飛躍的に増えた。トルクメニスタンは、東西千百キロ、南北六百五十キロ。南にはイラン国境の山脈、西のカスピ海、東のアム・ダリア川に囲まれ、日本の一・三倍もある国土に四百八十万人しか住んでいない国だ。ただし国土の八○%は砂漠である。
 砂漠国にとって緑が貴重であることは言うまでもない。ソ連のおかげで、緑が東西に点々と帯状に広がったのである。この国には世界最長のカラコム運河がある。国境のアム・ダリアからカスピ海まで東西千百キロ。これがソ連製なのだ。この国を綿花生産に特化させるために灌漑用に建設された、社会主義計画経済の巨大プロジェクトだった。統計で確認したわけではないが、以来トルクメニスタンの雨の量は少し増えたに違いない。緑があるから雨が降り、雨が降るから緑が育つ??のである。
 
スターリンもビックリ?
 お天気雨のなか、トルクメン国立大の学生、サビナさんがボーイフレンドの運転の車で街を案内してくれた。十九世紀末帝政ロシアが、ペルシャに進出した英国に対抗するためアシュガバードに前線基地を建設、そしてカスピ海からこの地まで鉄道を敷いた。車で二十分も真南に走るとイラン国境の山脈につき当たる。この山並みはコペット・ダグ(黒い山)山脈といい、地質学的にはまだ“若い山”なのだそうだ。造山運動が活発で、そのあおりでこの国は地震の名所でもある。震災記念館に行く。一九四八年六月十日午前一時九分、超大型(マグニチュードとか震度などという国際的尺度の表示がなかった)の直下型地震に襲われ、十一万人が死亡、帝政ロシア式の街は壊滅。かわりにやたらに道路が広いだけで文化の薫りの乏しいソ連式の現在の街ができた。
 記念館横の広場に、東京タワーの半分くらいの背丈の塔があり、先端になにやら金ピカの像がある。現大統領、ニヤゾフ氏が、「ソ連から独立し全方位、すべての国と平等で等距離外交を行う」との宣言をしたのを記念して九三年に建立されたのだという。金ピカの像はニヤゾフ氏それ自身であり、太陽の方角に常に対時するように回転する仕掛けがついている。サビナさんに「エレベーターで上まで……」と誘われたが、やめにした。
 私は言った。
「どこに行っても大統領に見つめられている。緊張して肩がこってくる」。「外国人はそう感じるかもしれないけど、大統領は国民にとっても人気がある。みんな尊敬しています」と彼女。たしかにそうであるらしい。エレベーターには大勢の人々が行列を作っている。
 ほんの一時間半ほどの市内見物で、「正」の字をつけてみたら、街のいたるところにニヤゾフ氏の肖像画、写真、そして彫像がなんと三十五もあった。この国の人々が、「それでよい」と思っているのだから、とやかく言うべきことではないかもしれぬが、この肖像の氾濫、個人崇拝の本家本元のスターリンや毛沢東さんもびっくりだろう。単位面積当たりで、おそらく世界的記録ではないのか。
 お断りしておくが、これは大統領選挙期間中のキャンペーンではない。ニヤゾフ氏が九四年、大統領の任期を五年から十年に延長する国民投票を行い九九%以上の賛成を勝ちとり二〇〇二年までは国家元首であり、ほとんど国王なみの地位を確保している。中央アジア五カ国は内戦中のタジキスタンをのぞくと、ソ連時代の共産党第一書記が、そのまま元首に横すべりをしている。なぜ、そういう人物が、ソ連離れした今日でも大統領の座につけるのか。それを考えることがこの国におけるニヤゾフ氏崇拝の謎解きに通ずる。
 ニヤゾフ氏も含めて、第一書記から横すべりした人々はソ連イデオロギーの支持者であった以上に、民族エリートだったのだ。ソ連に服従しているような顔をしつつ、イスラムと民族文化にしっかりと根をおろしていた。地縁、血縁に依拠した民族エリートの強固なネットワークがものをいうのだ。「イデオロギー百年、民族千年、宗教永遠」という言葉がある。社会主義イデオロギーが崩壊しても、それは饅頭の薄皮がむけた程度の話で、「民主主義」という新しい看板の下で、権威主義政治の体現者として君臨することができる。
 
「隊長クリバシ」
 このへんの事情を理解しないと、中央アジア諸国の政治は永遠にわからずじまいになってしまう。トルクメニスタンの新憲法には、「自由」も「民主」もあり、複数政党制もOKである。だが、この国の政党は共産党が改名したトルクメニスタン民主党(ニヤゾフ総裁)しか存在しない。反体制派は排除され、リーダーはモスクワに亡命中とか。ニヤゾフ氏の出自は十世紀にアルタイ山脈から南下した騎馬集団テケ族である。隣国ウズベキスタンの大統領カリモフ氏は、新興国ウズベクの民族団結の象徴として、ティムール王を国父に定めた。ニヤゾフ氏も国父探しを試みたのだろうが、ティムール王朝はテケ族の領土侵略者の前歴があり、結局自ら「国父」の地位を演出することになったのかもしれない。この国は石油・天然ガスが豊富であり、その潜在力を支えとして「一戸に一台のメルセデス(ベンツ)をもつ、中央アジアのクウェートになろう」と国民に訴え、カリスマ的地位を不動のものにしたという。
 国営商業銀行頭取のカンティモフ氏を訪ねる。ここで再び驚かされたのである。さして広くもない頭取の部屋に、七つものニヤゾフ氏の写真や彫像が飾られ、このほかトルクメニスタンの名産品である絨毯にも肖像画が織り込まれていたのだ。「HALK WATAN TURKMENBASY」と標語らしきものも、やたらに目につく。この国は独立後、キリル文字をローマ字に変更したので、読むことだけは可能だ。
「この標語はねぇ、人民・祖国・大統領ということだ。TURKMENの語尾のBASYは指導者という意味だ……。つまりわれわれの偉大なる指導者、ニヤゾフ大統領のことだ」。われわれ一行の東京国際大の栗林教授にむかって、「オオ。クリバヤシ、これは軍隊の隊長という意味だ。いい名前だ」。この頭取氏、一人で悦に入っていた。TURKMENBASYの肖像を七つも飾るとは、縁なき衆生には異様にしか映らないが、現世御利益もあるらしい。帰国一カ月後、この頭取氏がトルクメニスタン中央銀行総裁に大栄転したとの報を受け取ったのである。
 



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