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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: モスクワの春とは何ぞや? 最近ロシア事情(中)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1997/07/08  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  モスクワで貧富の差を論ずる
「ロシア人とは何ぞや」と聞かれて、答えられる人は、まずいない??のだそうである。「今日のロシアほど不思議な存在はない」と、モスクワで一夜、酒をともにしたフジTVのモスクワ支局長田中清司さんはいうのだ。
「今日のロシアについて、的確に書かれた単行本はないかしら」と私。
「日本語版は皆無ですね。英語版も探したけどありませんね。ソ連の共産主義が崩壊した直後、何冊かの英語の好著は出版された。当時のニューヨークタイムズのモスクワ支局長ヘドリック・スミスの書いた『新ロシア人』は、いい本だったけどね。でももう古い。今のロシアはだれも書けませんね。とらえどころないんですよ。仮に大作に取り組んだとしても、脱稿するころには、大きく変化しているかもしれないしね。とくに今のロシアは普通のもの差しでは測れないんですよ」。彼はそういう。
「そこをあえて断定するならば、今日のロシアは、極端から極端に走り、二極に分解した社会で、中庸が存在しない。それが現代ロシアの特徴では……」
 しばし沈黙ののち「まあ当たらずといえども遠からずというところかな。とくに経済がそういえます。ソ連崩壊後、ロシアの貧富の差は、極端を通り越している。ブラジル、サウジアラビア、そして今日のロシアが加わり、世界の貧富の格差の御三家だね」と田中さん。
 経済のシステムを「平等」と「不平等」という単純なモノ差しで測るなら、「平等」をモットーとする社会主義国は日本であり、「不平等」な経済を営む顕著な例は、元社会主義国で市場経済を導入したロシアということになる。国民の九〇%以上が中流と考えている不思議な国が日本だとすれば、「中産階級」なるものは存在しない不思議な国がロシアなのだ。
 ロシア連邦の一人当たりのGNPは千五百ドル見当だが、ドル換算の平均の数字など、この国ではたいした意味をもたない。ルーブルが年々、計画的にドルに対して切り下がっているだけでなく、所得の格差が極端なので、平均で語っても、あまり意味がないからだ。ロシアの最低所得層は年金生活者(勤続二十年以上で五十五歳以上の女性、二十五年以上の六十歳以上の男性には年金が支給されるが、モスクワを除くと支払いは滞りがちである)だ。
 年金の最低支給額は、月に十六万ルーブル。ソ連邦時代に日露語通訳のトップランクで国家公務員として勤続三十五年の経歴をもつ、通訳のヴィクトール・キムさんに聞いたら、「月に三百五十ルーブル」とのことだ。といわれてもピンと来ない。ドルに換算(一九九七年五月で、一ドル=七千四百ルーブル)すると、それぞれ月額二十四ドルと四十七ドルだ。
 いったい、それっぽっちの収入でどうやって飯を食っているのか。ソ連邦崩壊後、出生率が下がり、死亡率が上昇、平均寿命も短くなった(男五十八歳、女六十四歳)が餓死者が出たという話は、ついぞ聞いたことがない、とキムさんはいう。キムさんは超一級通訳(日本語の敬語は現代日本人より正確)だから、もちろん年金だけで生活しているわけではないが、マーケットの商品の値段にはとても詳しい。きっとやり繰り上手なのだろう。
 キムさんによると、ジャガイモ一キロで三千ルーブル(四十セント)、トマトが一万二千ルーブル(一・六〇ドル)、豚肉三万ルーブル(三十七セント)、ウオッカ一本二万六千ルーブル(三・五〇ドル)、ビールはデンマーク製のツボルグ、オランダ製のハイネケンが一缶で、それぞれ五千ルーブル(六十七セント)、と一万ルーブル(一・三五ドル)といったところだ。「ロシアのビールはだれも飲みません」とキムさん。
 住宅費は、ほとんどタダ同然(外国の駐在員用のアパートでも、暖房と水道代込みで四万ルーブル程度)だから最低の年金生活者でもかろうじて餓死しない程度の食生活はできるらしい。それでも、マーケットで物乞いをする老人はいる。ロシア正教の信者の多いこの国では、ジャガイモ二、三個とか、豚肉の切れ端を恵んであげるそうだ。
 年金生活者より若干上のランクが、政府や国有企業の勤め人だ。ヤブロコ(リンゴ党)の党首ヤブリンスキー氏をモスクワでインタビューしたのだが、こう言っていた。「熱核兵器の研究をやっていた、高名なソ連アカデミー会員が自殺した。この五年間、月額五十ドルの給料が、財政当局の事情で五年も支払われなかった。彼の遺書には、生活苦のため満足に働けなかった。この間、核の安全装置のメンテナンスが不十分になり、機能しなくなってしまった。申し訳ない??と書かれていたのだ。政府はカネがないといつも弁解する。ドルが経済の実態に入り込まずに、非合法に外国に流れたり、個人のタンスの預金になってしまう。それに税金を払う人間がきわめて少ないからだ」
 ヤブリンスキー氏は、四年前、市場経済の若き旗手といわれた経済学者だが、「たとえば一九九六年のロシアの国際収支は二百二十億ドルの黒字だったが、このカネがヤミヘ消えてしまった。その一部は銀行資本経由で、現政権の金権政治資金に流れている」と指摘する。
 ロシア経済で、政府が捕捉できないヤミ経済(密輸、武器売買、麻薬、そしてそれ自体は合法だが金融資本の為替投機)の規模は、政府発表のGNPの少なくとも五〇%はあるともいわれている。六百億ドルがスイスやルクセンブルクで不正に蓄積され、三百億ドルが、ドル札の形でロシア国内でタンス預金されているという説もある。
 共産党のジュガノフ委員長に、極端な貧富の差について質問した。「改革主義者のデタラメな政策でロシアは生産の半分を失い、人民が銀行に預けていたお金の八○%は消えてしまった。(インフレで減価)。本当の改革とは富や生産手段の所有形態を変更しても、みんなの生活をよくすることにある」と彼はいう。
「ロシアの金持ちは、今やわが世の春ではないのか。若いエリート銀行員の月額が二千五百ドルと聞くし、ベンツの購入台数が、ドイツを除くとロシアがトップ。それにひきかえ貧者には年金も支払われない。ロシア人はガマン強いのですか」と水を向けると、「ロシア人は歴史的にそういう資質をもっている。“ニチエーホ”(仕方がないから、じっと耐える)という。でも忍従の期間が長いと爆発のエネルギーは大きいよ。三千万人の人間が食うや食わずなのだからね」と。
 いまロシアの経済社会は、ノーメンクラツーラ(貴族的特権階級)コミュニズムから、ノーメンクラツーラキャピタリズムにかわっただけだ、といわれる。極端から極端へと走りつつあるロシア、宗教に人間の存在と心のバランスのよりどころを求める人が増えている。
 



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