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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: モスクワの春とは何ぞや? 最近ロシア事情(下)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1997/07/22  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ボリショイ劇場の退役軍人たち
 モスクワでは、ホテル・メトロポールに泊まる。由緒ある建物だ。十九世紀末に英国の建築家の設計によって完成した建物とのことで、正面には「眠れる森の美女」のモザイク画がはめこまれている。メーンレストランの天井のステンドグラスが見事である。一九一七年のロシア革命の直後、この天井の下ではロシア革命議会が開かれ、レーニンが演説したという。いまは、インターコンチネンタルのホテルチェーンのひとつだ。三年前の訪ロの際、ロビーで堤清二氏にばったり会ったことがあるが、彼のひきいるセゾングループは、このホテルチェーンの大株主とのことだった。
 少々高いが、とにかく「安全」は買える。いや、少なくともそう思って、以来、モスクワではこのホテルに泊まることにしているのだ。こんなにもってまわった言い方するのは、モスクワにはこと「安全」に関しては「絶対」というものは存在しないと疑っているからなのだ。モスクワはマフィア・グループが四十もあるという。モスクワ・ニュースの報道では、昨年一年間で、プロの殺し屋への依頼殺人事件が未遂も含めて全ロシアで六百件もあった。お値段はボディガードなしの人物だとお一人様、七千ドル、ボディガード付きだと一万二千ドルが相場だという。
 手口は、ボディガードに二千ドル程度を渡して、犯行時間、現場から一時的に消えてもらうことから始めるのだ。クリントン・米大統領も宿泊したことのある米国との合弁高級ホテル、スラヴァンスカヤ・ホテル前で、ロシアの地下経済の大ボスが、取引上のいざこざが基で暗殺されたが、捜査は迷宮入り。この事件も二人のガードマンは、なぜか現場にいなかったという。こうなるとボディガードもあてにはならないが、元軍人やKGBの人々の間でボディガード会社設立がはやっており、ボディガードを職業とする人が、全ロシアで一説によると五十万人もいるとか。ロシア陸軍が四十五万人だから、軍人よりも多いことになる。
 私はとりたてて重要人物でもないので、契約殺人の被害者になる可能性は限りなくゼロではあるが、「ロシアを文配するのは、法と秩序ではなくカネと血である」などと聞かされると、やはりロシア旅行中は、「安全」を買っておこうという気にもなる。ロシアでは、いま「NATOの拡大はロシアヘの深刻な脅威である」との声もあるが、同時にそんなことより「国内の病、つまり貧困や腐敗、そして犯罪数の上昇と社会不安こそ、ロシアの真の脅威なのだ」(一九九七年五月八日、モスクワ・タイムズ)という見解もある。
「共産主義時代のほうがよかった。秩序は保たれていたし、まだ貧しくもなかった」と思っている人も多い。議会の第一党、共産党の三千万人の支持者たちだ。このなかには、旧軍人が圧倒的に多い。
 五月八日、翌日の対独戦勝記念日の前夜、ホテルから歩いてほんの二、三分のボリショイ劇場に出かけた。ハイネの物語をもとに作られたバレエの名作、「ジゼル」が上演されていたからである。開演時間ぎりぎりに飛びこんだのだが、舞台に並んでいたのは、バレリーナではなく、なんと陸海空の軍服や、勲章を背広に十個も吊り下げた格幅のよい十人ほどの“オジサン”たちだった。
 盛んに「タヴァーリシチ(同志諸君)」と客席に向かって叫んでいる。ソ連邦崩壊以降、ロシアで、「同志」という言葉を聞いたのはこれが初めてだった。この人たちこそまさしく、共産党の有力支持母体である旧軍人グループだと思いつつ、通訳のヴィクトール・キムさんに聞いた。
「いったい、何事が起こっているんですか」
「いや、対独戦で勲功をあげたモスクワ在郷軍人の人たちですよ。毎年、戦勝記念日には、順番に招待されるんですよ」
 NATOの東への拡大は、わがロシアに対する深刻な脅威であるばかりか、これはかつてロシアが持っていた強大の権威への辱しめである。いくつかの国々はロシアの軍事的地位の弱体化をねらっている。同志諸君、われわれは団結しよう。彼らは、新しい戦争を準備しているのだ。ワルシャワ条約によってわれわれに守られていた国々が、NATO加盟をもくろむとは、恥知らずである。わがロシア軍は、歴史上、不敗であった。ナチス・ドイツをやっつけた輝ける「戦勝記念日」を、「終戦記念日」に改名しようともくろむ奴がいるが、これこそ売国奴である??。
 こんな調子の演説が、えんえんと四十分も続く。このとき、客席から野次が飛んだ。「もういい加減にしろ。いつまでやってるんだ」すると、私の客席のすぐ後の勲章をつけたグループから、つぶやきが聞こえた。キムさんの解説によると「今どきの若者は、なっとらん。ロシア民族の危機だ」と嘆いていたのだそうだ。キムさんに頼んで、二十分もある「ジゼル」の幕間(青年貴族に恋をしたジゼルが、彼に婚約者がいることを知り、発狂して死んでしまう第一幕から、第二幕のジゼルの墓の前までの休憩時間)に、勲章を誇らしげにつけた招待客の何人かにインタビューを試みた。
 ??私は七十歳。女の狙撃兵だったの。女だけの狙撃部隊があってね。私は狙撃の名手だった。なにしろ七十人もの敵兵をやっつけたんだから。勲章を七つも持っているの(今は年金生活者だが、住居費が安く医薬品もタダなので、なんとか暮らしているという)。
 ??わしは、上級大尉だった。ノモンハン、フィンランド、スウェーデン、そして第二次大戦を戦った。ロシア軍は歴史上負けたことがない。ナポレオンだって、最後にはやっつけたからね(この人は八十三歳だという。将校の制服に勲章が十数個ついていた)。
 ??そうですか。では日露戦争は引分ですか?(通訳を通じて、私はそう質問した)
 ??ワハッハ。とにかく日本人は頭がいいよ。あんな小さな国なのに、すごく繁栄している。兄弟よ、お互いにもう血を流すのはやめような。
 この日のボリショイ劇場の戦功者招待の答は三百人だったという翌日は、赤の広場で戦勝記念日のパレードが開かれ、一般人抜きでエリツィン大統領以下の政府高官とこの日の招待者も含めて存郷軍人による閲兵式があった。ソ連時代の名物だった戦車やミサイルなど、重火器の行進はなくなった。赤の広場の地下に巨大な商店街を建設中であり、これからも、大規模な重い武器の誇示はやらないという。
 冷戦の時代は、モスクワでも、徐々に、そして確実に去りつつある。
 



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