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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 「インド」びっくり紀行(3) 小説・「デリー」の世界  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/04/25  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  作家「Kushwant Singh」
 出発前、教養人との評判の高い友人に「インドに行く」と言った。「どこ? デリーか。あそこはね、あまり面白い都市でない。ムスリム・インドの首都だったが、狭くてね。たいしたものはない。歴史と文化の旅としてはつまらんところだ。隣接のニューデリーは、英国好みの都市計画で建設した植民地インド帝国の首都だった。珍しく緑が多いが、インドの匂いがしない」??。私の初のインド行きはちょっとばかり水を差された。
 デリーで偶然にも調達できた超優秀の若きガイドRaj君に、この話をした。
「日本のお客さんで、そういうことおっしゃる人、たまにいます。とくに知識人の方、そう言います。それなら後で、アーグラまでお連れします」。デリー大好きの彼はやや不服そうだった。アーグラは、ヤムナー川を南に下り二百キロ。有名なタージ・マハールがある。ムガル王朝の皇帝が、病死した妃を偲んで造らせた廟墓で「大理石の鎮魂歌」と称されると旅行案内書にある。
 私に与えられたデリー旅程は、二泊三日、何人かの学者や外交官との約束があるので時間が割けそうにない。「朝六時十五分、ニューデリー発特急に乗ると八時過ぎにはアーグラに着く。でも無理です。駅だけでも見物しますか」。Raj君の言に従いニューデリー大停車場に出かける。
 入場券を求めて中に入る。とにかく人が多い。やたらに手荷物が多い。そして臭い。十六番線まであるプラット・ホームを跨線橋が結んでいる。活気に満ちてはいるが、薄汚れた感じは敗戦直後の上野駅を連想させる。
 でも、食堂、待合室、リタイアリング・ルーム(簡易宿泊所)、お茶や、スナックの売店、そして本屋が何軒かあり結構便利だ。面白そうな本を買った。「Delhi’a novel」(小説デリー)。著者はKushwant Singh。Raj君のお勧めである。「インドで最も人気のあるベスト・セラー作家です。シーク教徒でデリーを愛する人です。観光の時間あまりないので、代りにこの本読んで下さい。小説だから英語簡単です」と。ところが、英語は簡単ではなかった。「インド人の知的階級の英語はくそ難しい」と聞いてはいたが、聞きしに勝るとはこの事だった。平均一ページに一個以上わからぬ単語があり、英和辞典を引いても半分は載っていない。
 ほとんど徹夜で格闘して、翌朝のRaj君との再会に備えた。この一九一五生まれの著者は、ジャーナリスト出身で、デリーの日刊紙の主筆をやるかたわら、小説も書き、シーク教の歴史書までものする大御所であった。
 彼はこよなくデリーを愛している。ストーリーに娯楽性をもたせるため男女両性の愛人(ヒンドゥー教の文化では“第三の性”は肯定されている)を軸に据えて、主人公である熟年の道楽者の語り部が、デリーの起源と変遷を縦糸に、そしてこの街の隅々で出会った人間、詩人、王女、聖人、外交官、政治家、工侯、誘惑する女、裏切者、人妻、去勢された男などを横糸に大叙事詩を展開しているのだ。「開祖ムガール皇帝のこの街は、変形しつつも私たちの心の中では不滅の都市であることを読者は見出すであろう」とある。
 たった半日しか割けないデリー観光、この本とRaj君のガイドを重ね合わせて、その魅力をつかもうと試みたのだ。
 まず、オールド・デリーの赤い城(Red fort’デリー城)へ。小説には、「最高の皇帝」(Last Emperor)の章があり、反イギリスのセポイの反乱に荷担したバハードゥル・シャー二世が、英国軍に捕われ廃位、流刑されたムガール帝国最後の日が生々しく書かれている。Raj君によれば、「それ一八五八年の出来事です。その頃のムガール朝の領地はこのデリー城の周辺に限定され、もはや皇帝は称号だけの存在でしかなかった」という。
 かくて百年にわたる英国のインド支配が始まったのだ。
 
「デリーで酒を飲むには」
 赤い城の近くに、「モティ・マハール」という名のタンドリー・チキンで有名な高級レストランがある。ここで主人公がドイツの女性外交官とデートした話が小説の一節にある。「デリーのレストランではアルコールを客に供することは禁じられている。そこで、私はウエイターが横を向いた隙に、隠し持ったビンから、インド製ウイスキーを、コーラのグラスに注いだ。これがインドでは禁止的に高価なウイスキーを、インド人が賄える限界だと彼女に説明した。さすが外交官、彼女はこのヒントにピンと来た。以後、私は彼女から外交官用のスコッチや高級ワインをデートの度にせしめることにまんまと成功した」と。私も以後、Raj君にウイスキーを隠し持たせデリーのレストランでコーラに混ぜ、この小説家の気持ちを味わうことにしたのである。
 オールド・デリーにはマハトマ・ガンジーの住居跡があり、博物館になっている。一九四八年一月三十日午後五時十七分、中庭に造られた寺院に祈りを捧げに向かう途中、過激派の青年に暗殺された。「群衆の中にいた彼は、制止しようとした女友達を押しのけ、ガンジーの足元にひざまずいた。そしてDhoti(ヒンドゥー教の男子が着用する腰布)から、連発拳銃を引き抜き、この老人に三発の弾丸を打ち込んだ。タン、タン、タン。何が起こったのか。群衆が事態をつかむにはかなりの時間を要した」そう小説に書かれている。
 こうして悲劇的な死をとげたインド独立の父ガンジーは、現代インド人の間で絶大なる尊敬を得ているかというと必ずしもそうではないらしい。「若い人(ヒンドゥー教徒)は、ガンジー嫌いな人多いです。イスラムの為にパキスタンを分離して譲渡したことに怒っている。そして、あの人、聖者のような顔して、とても女好きだった」。
 Raj君はそう言った。この手の話は、実際にその国に行ってみなければわからない。
 クトーブ・ミーナルに足を延ばす。ニューデリーの郊外十五キロにあるイスラム教のモスクの跡である。ここでシーク教徒である小説の主人公は、不倫の相手の作家志望の人妻と面白い会話を交わしている。
 人妻「ここは元々は、ヒンドゥー教の寺院だったことが、最近の調査で証明されたんですってね。私、それ信ずるわ」
 主人公「ホウ。それなら赤い城もタージ・マハールも、そうだったと言いたいのかね。どこでそんな馬鹿げた情報を仕入れたの。ここの建物はすべて完成時に建主の名前が刻まれている。アラビア語でね。(アラビア語はイスラムのものであることの証明)。君、ヒンドゥー教過激派の宣伝に乗せられたんじゃないの」
 
「ダライ・ラマの金塊」
 ヒンドゥー教の最高位の階級、バラモンであるRaj君。「この小説の著者、とても素晴らしい人だけど、シーク教の人、ヒンドゥー嫌いのイスラムびいきです。彼の書いてること絶対間違いです。ここで私、証明してあげます」。憤然としてそう言ったのである。宗教とは、この国においては、いかに存在の大きなものであるか思い知らされた。自己のもつ全価値体系の危機とばかりに彼はこう言った。
「十二世紀にイスラムがこの地に攻めこんで、ヒンドゥー王朝を滅ぼしたんです。よく見てごらんなさい。この建物の上にある玉ネギ型のドーム。あとで粘土や砂で盛り上げたものです。ここの柱、ヒンドゥーが、元々一枚の大きな岩を削って作ったものです。ホラ、足元にヒンドゥーの神の顔を後で削り取った跡があるでしょ」
 いささか、ご機嫌斜めのRaj君をなだめるつもりで、「この小説に、書いてあるところへ行こう」と誘ったら、早速、のってきた。オールド・デリーの陸橋のふもとにあるチベット人流民の街に連れていかれた。Chinese Tibetiam Budh Vihar(中国チベット人の仏教寺院)の周囲、一キロほどに雑然として商店が並び、中国から密輸入した衣類や雑貨、そして羊の肉などが売られている。十年ほど前に、不法占拠で出現した街だという。
「どうして政府は立ちのき要求しないの」と聞いたら、Raj君の答えがふるっていた。
「ヒンドゥー教の人、よそ者に寛大だから……。でもこんな話もある。ダライ・ラマさんインドに亡命したとき、何トンかの金塊もってきた。その半分をインド政府にあげました。だから政府は黙っている」と。チベットの流民は今でもヒマラヤを越えてインドに流入しているという。「どうやって来たかわかりますか」との問いに「車で来たの?」と答えたら、Raj君が笑い出した。「チベットの人、車もってるわけないでしょ。車もっていたって、ヒマラヤの山、越えられないよ」と。彼らは、ロバの背中に荷物を乗せて、徒歩で何カ月もかかって、デリーに来るのだという。「チベットだけじゃなくて、バングラディシュからもビザなしで、出稼ぎが毎日大勢来るからね。インドは人口増えて困ります。一九九九年の十一月、インドの人口は、遂に十億人になった」。彼はインド人自身の出生率の高さを棚にあげて、人口爆発中のデリーの将来を、憂えること、しきりであった。
 



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