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著者: 笹川 陽平  
記事タイトル: 外交を怠慢で腰抜けな官僚に任せるな  
コラム名: 複眼インタビュー   
出版物名: THEMIS  
出版社名: (株)テーミス  
発行日: 1999/11  
※この記事は、著者と(株)テーミスの許諾を得て転載したものです。
(株)テーミスに無断で複製、翻案、送信、頒布するなど(株)テーミスの著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  中国には「日本からの借金を国民に全て話せ」、
北朝鮮には「テポドン発射には100倍返す」と
 
民間人なら反論もできる
 日本の外交は本当に機能しているのだろうか??。こうした疑問は以前から根強くある。戦後、米国追従外交一辺倒できたため、外務官僚のみならず、政治家、知識人に至るまで「腰抜け」になってしまった。そうしたなかにあって、早くから世界各国を飛び回り、民間外交に務めていたのが、日本財団の笹川陽平理事長だ。
 世界各国の要人を相手にして、日本人の思っていること、考えていることをズバリぶつけてきた。それが笹川流民間外交である。
??民間外交の有益性と、その裏返しにもなるいまの日本の外交の問題点をどう考えるか。
笹川 外国では、民間から外交官になる人もいるし、外交官から学者になる人もいる。ところが日本の外務省はいまだに、「外交は外交官試験に合格した外務官僚の専管事項であり民間人がタッチすべきではない」という強い気持がある。大使の正式な身分は「特命全権大使」となっているが、外交はすべて外交官の特命事項と思っているのは19世紀外交の遺物だ。
 いかに情報を集め分析し、国の外交政策を考えるか、これは外交官だけでは人数的にも不可能。民間人からも良質な情報を集めずして集まるわけがない。それをやりたがらないのだ。
 
'97年6月、北朝鮮から「日本人妻の里帰りを認める」確約を取りつけ、帰国後すぐに柳井俊一外務事務次官(当時)に伝えた。反応は「そうですか」のひと言だった。会談の内容や経過は聞こうともしなかったという。
 
??それでも最近は「(北朝鮮外交の)道筋をつけてほしい」と頼まれるようになったとか。
笹川 私どもは長い間、どこの国のトップに会うときでも、外務省にお願いしたことはない。独自のルートで大統領や首相に会えるし、会えば一民間人だから、とても率直な意見交換ができる。
 例えばこの前、中国に行ったときには、遅浩田国防部長が「日本は中国への投資をもっと増やすべきだ」という。私はすぐに反論した。中国がいま世界から借りている6兆円のうち3兆円は日本が出している。あなたがたはなぜそういう事実を解放軍の軍人をはじめ国民に知らせようとしないのか」と。耳の痛いことでも率直にいえるのが、民間人の良さだ。
 ところが外交官という立場になると、お互いにいいたいことがいえない。私なども現地の大使に同席されてしまうと、会談は全く実りのないものに終わるので困るときがある。当たり前の話しかせず、論争もできない。
 
今年11月に、韓国政府から「北朝鮮について意見交換したい」と招かれている。翻って日本の外務省は、「情報」に対してあまりに鈍感だ。
 
??日本は敗戦を機に「情報」に対する感度が鈍くなったのか。
笹川 大きな流れとしては、やはりアメリカ追従外交がある。外務省の役人は、冷戦構造が崩壊するまでは「親米・反ソ」の烙印を押してもらわなければ偉くなれなかったと。従って、日本の国益を考えた外交官ではなく、アメリカ国務省筋に評価を受ける外交官を目指してきた。アメリカの意向に従っていればいいため、あまり情報収集もやる必要がなかったということはいえるだろう。
 
北朝鮮は93年にも撃った
??各国のトップに多数会った中で、指導者としてとくに印象に残った人物は。
笹川 どこの国の政治指導者も自国の歴史や文化に誇りを持ち、政治家として確固たる信念を持っている。例えば、ペルーのフジモリさん。日本大使公邸占拠事件のとき、橋本(龍太郎)さんがカナダまで行って「とにかく平和裡に人質を傷付けないように」というだけ。これでは世界の物笑いだ。フジモリさんはそれを国家の威信を損なわずにやるにはどうしたらよいか苦慮していた。一国を守ることがどれだけ大変なことか。フジモリさんは「ペルーの誇り」ということを常にいっておられた。そういう気概がなければ、一国の指導者とはいえない。
 
日系人の大統領が誕生したペルーに、日本は南米各国では最多のODAを供与した。そのことが事件の遠因となったという見方もあった。
 
??それでも日本はフジモリ大統領に冷たいんじゃないかという論調も見受けられたが。
笹川 フジモリさんが日系人だから親しみを持つとか、両親が日本人だから??という視点で彼を見てはいけない。スペイン系やポルトガル系の旧宗主国の富裕階級が支配してきた南米で、初めて非支配者階級の中から生まれた大統領だ。彼は、長い間白人の支配者に支えられてきた社会を変えようという、一種の革命をやっているのだ。その彼をどうサポートするかを日本は考えるべきであって、日系人の大統領だとかいう次元の低い話ではない。彼は紛れもないペルー人だ。
??日本の北朝鮮外交について。
笹川 日本国政府は北朝鮮との間には今もって全くパイプがない。外務省は焦って、いろいろなことをやっているようだ。国連の北朝鮮代表部に行ってみたり、局長クラスがシンガポールまで出かけて、北朝鮮の代理の代理と接触して、「シンガポールで会談ができた」といっている。しかし実際には何もできていないし、第一、日本は北朝鮮に対してのポリシーがない。
 要するに米朝が動いている。韓国は包容政策という一貫したポリシーで対応している。中国は金永南・最高人民会議常任委員長以下を迎えた。日本は何もしていないと、世界から見られたくない、そのためのパフォーマンスをしているだけだ。心が入っていないから、何をやっても繋がるわけがない。相手方も「ああ、日本外交は焦ってるな」と、パフォーマンスを読み切っている。悲しい話だ。
??テポドンの問題でも何もする必要はなかったか。
笹川 「撃たないで下さい」ということよりも、あれだけ強力なミサイルを持った事実に対して、日本国民はどう対応するのかを論議すべき。「もし撃ったら百倍返すぞ」という姿勢を示す話だろう。
 しかも北朝鮮は'93年にも、日本の上空を越えて2発撃っているはずだ。あちこちに確認するよう頼んでいるが、防衛庁は「そういう事実はない」という。これは日米安全保障条約に関わる重大問題だ。アメリカはその事実をキャッチしていながら、日本に通告していないことになる。防衛庁としてどう思うのか聞いても、「なかったんじゃないですか」で終わりだ。
 
村山訪朝のムの字も出ず
??政治家の外交については。
笹川 金丸訪朝団以降、どれだけの人が北に行ったか。金丸訪朝団は当時としては最強部隊を組織して行って、朝鮮労働党と話し合いを持った。そこでたくさんのことを双方で約束したが、何一つ実行できていない。向こうは党の下に軍隊があり、政府がある。党が一番上だから、日本の自民党と社会党が来たからには、日本政府は合意事項を必ず実行すると考える。ところが、金丸訪朝団が帰った後、政府は「考えが違う」といって、全部だめになった。
 その後、渡辺美智雄さんや森喜朗さんの訪朝団があったが、何も結果が出ていない。要するに的は“マスコミ受け”だ。だから、私は議員外交に対しては批判的に見ている。一つのポリシーなり哲学が脈々と流れていればいいのだがそれがない。そのときどきで断絶してしまうのは問題だ。
 
笹川氏は'92年3月に初めて北朝鮮を訪れ、金日成主席と会談した。北朝鮮の核疑惑に神経をとがらせる米国が、核施設爆撃を真剣に検討しているといわれた時期だ。米国との関係改善を模索する金日成に、笹川氏は「米国要人を招待するのが有効」と助言し、旧知の友人、カーター元大統領を紹介した。'94年6月のカーター訪朝がきっかけとなって、第二次朝鮮戦争の勃発を防いだといわれている。
 
??北朝鮮は米朝会談に全力を挙げている。
笹川 金日成の凄いところは、私みたいな一民間人の意見を聞いて、パッと米朝交渉に切り換える姿勢だ。金日成とカーターとの会談によって、米朝高官協議による核問題解決や南北首脳会談に展望が開けた。だが、金日成は突然('94年7月)死んでしまった。彼が生きていれば、南北間の問題も米朝関係も劇的に進んだと思う。彼が死んで丸5年、金正日の時代に入って空白が生まれた。
??日本に対する関心もない。
笹川 全くないわけではない。私が「日本人妻」談判をした相手は、張成澤という、当時党の組織部副部長(部長は金正日)でナンバー2だった人物だ。彼に会ったのは世界でいまだに私しかいない。本当なら対日問題は、国際部か外交部が担当する案件だが、飛び越えてナンバー2の張成澤が対応した。金正日は、自分の最愛の妹の亭主である張成澤に何か一つ箔を付けてやりたいと考えたのではないか。その上で労働党を張成澤に託そうという思いがあったようだ。
 ところがある事件が起きて、張成澤は私と会談した1か月後に査問にかけられてしまった。金日成が突然死んだことと、張成澤が途中で一線から外れたこと、この2つが日朝交渉の悲劇だ。結局、金日成の死後、いまだに朝鮮労働党は党大会を開けない。人事に手を付けられないから、対日責任者がいない。対日責任者がいないときに北朝鮮に行って、誰と会って何の話をするのか。
??村山訪朝団にしてもお笑いぐさということか。
笹川 日本の北朝鮮外交は、外務省にしても政治家にしても、朝鮮総運を窓口にする以外にパイプがない。しかし私は朝鮮総連がどこにあるか知らないし、会ったこともない。
 これまで北朝鮮はあらゆる問題で朝鮮総連を指導してきたが、いまは全く具体的な指導が行われていない。いまや朝鮮総連は解体の危機にある。そこで朝鮮総連は、本国から見放されないために、日本における影響力を示さなければいけない。そのために、日本の政治家に「招待するから国に来てください」と誘いをかけている。
??それに皆が乗せられてきた。
笹川 村山訪朝団の件で、朝鮮総連は金正日に「こういう代表団をお迎えしたい」というつもりで国に帰った。ところが金正日から一方的に「お前たちは日本で何をやってるのか」と叱られて、謝って帰って来た。結局、村山訪朝団の話などひと言も出せなかった。かつて訪朝団が帰ってきて、朝鮮総連にお礼の挨拶に行った。森(喜朗)さんたちが挨拶している姿を朝鮮総連はビデオに撮って、国に送って「次の総理大臣の最有力候補の森先生が、朝鮮総連に来て頭を下げています」と報告する。それがニュースで流れている。私は森さんに「こういうふうに使われるんだから、気を付けなさいよ」といった。
??日朝関係が進展しない一番大きい原因は何か。
笹川 最大の問題は、残念ながら日本側にある。日本は北との間に何をしたいのか、いまだかつて明らかにしたことがない。最大の課題は第2次大戦の賠償を含めて国交回復だろう。そのために、どういうプロセスで何をするのかを、日本側は何も明示していない。ただ会いたい、会いたい、挨拶したい。で、向こうはコメくれ、コメくれっていうだけの話。
??だから利用されるだけ。
笹川 向こうには利用しているつもりはないと思うが、ともかくそういう危険な国に対して私たちが自らの国をどう守るのかと。テポドンを撃ったらどうするのかを、はっきりこっちがいえばいいだけの話であって、撃たないでくれといってみたって話にならない。撃たないとしても現実に脅威があるのだから、その事実に日本はどう対処するのかということを考えなくちゃいけない。
 
父は演説の仕方も教えた
'39年笹川良一氏の三男に生まれ、62年に明治大学を卒業。全国モーターボート競走会連合会会長、国際研究奨学財団顧問などを務める。世界的視野に立ったNGO(非政府組織)活動の立案・実行の第一人者である。'95年7月に96歳で死去した父の「息子から見た素顔」を著書『知恵ある者は知恵で躓く』で描き、講題になった。
 
??ご自身の父親について。
笹川 父親というより人生の師みたいなもので、私は食客、居候と同じだった。朝起きたら、飯炊きから車の掃除をして、お客さんの靴を磨いて、自分で弁当を詰めて学校に行って。帰って来ると洗濯をして、お客さんのワイシャツをプレスして、晩飯の片付けをして、台所の整理がつくのは夜中。ずっとそれを続けてきたが、私は勉強を好きじゃなかったから、そのほうが実は楽だった。そういう生活の中で、生きた勉強をさせてもらった。
??具体的には。
笹川 例えば挨拶の仕方、演説での間の取り方とか。堂々とした姿勢で話して、絶対に原稿は使うなと。それから目の位置は、右から左、左から右。一人ひとりの目をちゃんと見ながら、自分の心をどうやって相手に伝えるかを意識して喋らなきゃいけないと。自分が喋るんじゃない、相手が理解することだ。立て板に水なんてのは、ただ流れてるだけで相手の心には残っていないと教えられた。
 
日本財団は年間事業予算600億円を超える世界最大の財団で、30年間の海外協力援助で築いたネットワークは、国連など国際機関からも活用されている。世界60の大学に奨学基金を設置し、奨学生の卒業時に笹川氏がサインする手紙は年間1千600枚になる。
 
??日本財団の将来像について。
笹川 いかにして官僚的手法、あるいは官僚の支配から脱却するかが、この財団の戦いの歴史でもあった。柔軟かつタイムリーに資金を使いながら、世界の中の日本をどうアピールし存在価値を示すか。その意味で私どもの財団は国益の一部を狙っているという自覚で仕事をし、成果も出ている。
 アフリカの12か国で農業指導をしているが、250万人の餓死者がいたエチオピアを、たった3年間で食糧輸出国にまで変えた。12年前の国際会議で、世界銀行やUNDP(国連開発計画)、FAO(国連食料農業機関)にはこういわれた。
「われわれはアフリカ問題を30年もやっている。民間人のあなたがたに何ができるのか」。
 それがいまや世界銀行は、われわれの最大の協力相手になった。
??世界中のらい病の薬に、日本財団のロゴが入っているとか。
笹川 10年前の報告では、1万人に1人以上のらい病患者がいる国が122か国あった。今年の報告では15か国に減っている。日本財団は地球上から2つ病気をなくす。一つは天然痘をなくした。らいも2005年までにはなくせる。
 我々の仕事の大半は10年以上の事業で、らいには私は27年も携わっている。やれ環境だ、何だとその時々の流れに乗って次々とテーマを変えて取り組んでも結実しない。諦めないで続ける、その継続性が重要だと思う。
 日本の大臣は外国に行ってもだいたい1年で変わるが、私どもは民間人ではあるが、20年も30年も同じ仕事をやっているわけで、自ずから相手との信頼関係も違ってくる。これも継続だ。
 



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