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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 山頂物語?“こういう解釈”少なくなった  
コラム名: 自分の顔相手の顔 152  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/06/16  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   海外で働く日本人の神父や修道女が、布教ではなく、途上国の一般の病院や乳児院や、教育機関などで働く活動を助ける小さな民間の援助組織を二十六年間やってきて、日本中の個人から貴重な献金を受けていると、時々思い出す話がある。聖書の中で「やもめの献金」として知られている話である。
 或る日、イエスはエルサレムの神殿で、十三個あったと言われる賽銭箱の見える位置に座っていた。
 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれにお金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
 『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』(12・41〜43)」
 こういう解釈は今の日本では希薄になったように思う。彼、或いは、彼女なりによくやったという褒め方はせず、立場や境遇とは無関係の実績だけが問題にされるのである。
 「お父さんの月給は決して高くはないけど、お父さんは誠実によく働いてる立派な人よ」
 とお母さんが子供たちに解説するケースはむしろ少ないような気がする。
 キリスト教の場合、「神は隠れたところにあって、隠れたものを見ている」というはっきりした思想がある。この神殿の献金箱の情景は、まさしく神が目立たない一人のやもめの行動をじっと見ていたのである。
 彼女は服装も貧しげで、捧げた金もほんの小銭だった。しかし彼女の生活の中では、そのお金は、他の金持ちが献金した額よりもずっと大きな比率を占めていた。尺度は、人一人一人が持っていて当然なのである。

 この話はいつも私の中で、障害者の生活と連動して思い出される。今年も私たちは、障害者と、エジプトのシナイ山へ登ったが、山頂を極めた盲人が数人いたのと比べて、気の毒なのは車椅子の人たちであった。どんなに努力をしても、数千段の不規則な石段を登ることはできない。しかし毎年、この旅で、歩く距離を伸ばして帰る人は多いのである。
 三メートルしか歩けなかった人が、百メートル歩いたら、それはエベレストに登ったことと同じかもしれない。
 人にはそれぞれの山頂がある。神はそれを個別に見守る役である。もし神がなかったら、百メートルしか歩けない人は死ぬまで一人前でないことになる。しかし神の評価で見ると、その人は最高の登山者なのだ。
 私たちが受ける寄付には、よく手紙がついて来る。多額の人にも少額の人にも、それぞれの思いがこめられていて、私は感動する。それぞれの山頂物語を聞く楽しさなのである。
 



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