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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: おお、スラム街、眺望絶佳なり リオ・デ・ジャネイロで(中)  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1997/05/27  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ローマ法王も訪問
 ブラジルという国を、日本人の尺度で測るとしばしば間違いが起こる。無数の逆説(パラドックス)で成り立っている国だからである。ミスパーセプション(事実誤認)が起こりやすいのである。そういう私も、とんだ思い違いをやらかし、この国の人々にひやかされたのだ。
 リオでの初日。宿泊先のシェラトンホテルの夕暮れは、まさに眺望絶佳であった。正面にはレブロン海岸が広がり、ヤシの葉越しに遠く漁り火が見える。右手には山があり、山の傾斜の夜景が美しい。電灯の光が一面に散りばめられ、百万ドルといえないまでも百万円ぐらいの眺望的価値がある。昼間、そこから見る海の景色はさぞ美しいことだろう。神戸の六甲山麓に匹敵するほどの高級住宅地だろうと値ぶみしたのだ。
 一夜明けて翌朝、レンガ造りの家々が緑の樹海の中に、びっしりと建っていた。なかには三階から五階建てのアパートとおぼしき建築物が山腹に見えるが、平屋もしくは二階建ての住宅は思いのほか小さい。庭らしきものも見えるがこれがいかにも狭い。しかも山の頂上に近づくほど家が小さくなる。視界が遠くなるから小さく見えるのではなく、実際に小さいのだ。そこで、「不動産評価」を変更したのだ。中腹は中の上の住宅地、項上に近いところは眺めはよいだろうが、ふもとのハイウエーから遠くなるので、交通の不便を考慮に入れると、さほど金のない庶民の住宅地である??と。
 だが、後刻、これで恥をかいたのである。
「ミスター・ウタガワ。あれはファベーラだよ」とブラジル人の実業家がニヤッと笑うのだ。さて、ポルトガル語でファベーラ(favela)とはいかなる意味の単語か。元ヴァリグ・ブラジル航空(ブラジルのナショナル・キャリアー)の職員で、現地人の奥さんを持ちリオで通訳兼ガイドをやっている清水さんに聞いたら、「英語でいえばSHACKSですよ」という。SHACKとは掘っ立て小屋のことであり、ファベーラは掘っ立て小屋の集合体という意味だというのだ。要するにてっとり早くいえば、スラム街なのである。
 私のスラム街のイメージは、どうしても最貧国のアジアにひきずられてしまう。バングラデシュを例にとると、最貧困層の家は屋根も壁も葦で造り、衣服もほとんど着ていない、その少し上になると屋根だけトタン、その上が屋根、壁ともにトタン、さらにその上になると屋根はトタンで、壁はレンガ、ここまでいくと貧困層とはいえなくなくなるのだ。ところが、ブラジルのスラムの壁はすべてレンガ造りである。立地と建物のアジア的評価基準からいくと、それはスラムではない。「危ないから、あの山に入ってはいけません」と警告する清水さんに頼んで、ホテルから見える山腹のすぐ下を通る道をゆっくり車で走ってもらった。道路から上は私が眺めのよい結構な住宅地と事実誤認したスラムが山頂までびっしりと続いている。ROCINHA(ホシーニャ)という地名をもつ、ブラジル一のスラム街である。
 自動車道路の両側には、スーパーマーケットがあったり、安食堂、飲み屋もある。昔からある伝統ある工業高校の校舎の隣に、大きな間口の肉屋があり、豚の足、シッポ、耳や臓モツが並んでいた。客は山の急傾斜に住むスラムの住人たちである。清水さんの解説によると、このスラムには一等地から二等地、そして三等地とだいたい三つにクラス分けされる。道路に近い下方は一等地であり、スラムの親分たちや、きちんとした定職をもつ労働者たちが住んでいる。
 水は雨水をためる。火はプロパンガスのボンベ、フロは盗電した電気でわかす。これが二等地、三等地に住む中・下位の住人の生活である。
 自動車道路のすぐ上に「売り物」の看板が見える。二戸当たり一等地で三千ドル、山の項上付近は徒歩で一時間もかかるので千ドル程度だそうだ。家族全員で二階を建て増しして、売りに出す人もある。
 一九八O年にはローマ法王が、このスラムを訪問し、このホシーニャ・スラム街は世界的な名所になった。法王は、そのとき群衆の中の一人の男に金の指輪をはずして与えたとのことだ。その男は翌日から姿が見えなくなった。指輪を持ってスラムから逃げ出したのか、消されてしまったのか、今もってわからないという。リオには黄金にまつわる奇怪な話はほかにもある。何年か前、ワールド・カップ・メキシコ大会でブラジルのサッカーは優勝した。そのときの純金の優勝カップは、リオの博物館に展示されていたが、ある夜、突然、陳列ケースから消えてしまった。そして何日か後に、博物館長が行方不明になったとのことだ。そこで四回目の勝利を飾ったアメリカ大会の優勝カップは、複製のレプリカを博物館に展示し、本物はスイスの銀行に預けてあるという。
 このスラムの親分たちは豪勢な暮らしをしている。主たる収入源は私設ギャンブルの胴元である。ブラジルのサッカー・クジは有名だが、カケ金の七〇%は大蔵省の収入にしているので、一等賞金は高くても、全体としてのリターンは低い。そこに目をつけたのがスラムのボスたちで、ロットという名の一から百までの数字合わせのクジを開発し、道端で販売し、夕方には当選番号を発表して払い戻しをする。賭け率は公営のサッカークジより高いので、庶民に人気がある。取り締まりの警官も、夕刻発表されるビンゴの番号に熱中する。
 このスラムの住人は、日雇い労働者、メード、ゴルフ場のキャディ、ヤクザなどまちまちだが、れっきとした定職をもつ給料取りも大勢いる。身分を隠して、警官や税務署員が住人になるケースもある。情報収集のためのスパイ活動ではなく、経済的理由からである。運悪く身分がばれて殺された警官もあったという。
 この山上のスラム、いったいどういういきさつで、いつごろから発生したのか。「第二次大戦直後からあったと聞きますがね。いきさつはわかりません」と清水さん。ホテルに戻ってJOSEPH・PAGE・ジョージタウン大教授の書いた『ブラジル人』を開いて見た。第七章の「持たざる者」に、そのいきさつが書かれていた。「ホシーニャは一九二〇年代、山のふもとの小さな農地に点在する静かな住宅地であった。ところが、五〇年代、リオの“持たざる人々”が見はらしのよいこの山に目をつけ、空き地を不法占拠し掘っ立て小屋を造り始めた。そして十年後には山の頂上にまで、爆発的に拡大していった」とある。レンガを積んで天に至る。ああ、貧なるかな……。
 



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