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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 海の大国・インドネシア記(4) ジャワ原人(ピテカントロプス)を訪ねる  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/09/12  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  生魚はいかん(IKAN)!
 ジャカルタで一番人気のある日本料理屋は「よし子」という料亭とのことだ。海外に出たときは日本めしは食べないことにしているのだが、原則を曲げて、その店に出かけることにした。インドネシア旅行で親しくなったハビビ政権の元教育大臣、ワルデマン氏と懇談するためであった。この人は、中部ジャワの貴族出身。イスラム教徒なのだが、酒もたしなむし、大の日本食党で、サシミ大好き人間だと聞いたからだ。
 ジャワ人は生臭い食べ物を嫌うという話をガイド・ブックで読んだことがある。ターメリックなどで臭みを消し、スパイスをたっぷりまぶした「イカン・ゴレン」(魚の唐揚げ)がインドネシアの普通の魚料理だ。ちなみに「イカン」とは魚、「ゴレン」とは油で揚げるという意味である。だがこの人は生魚は「イカン」どころかマグロのサシミを器用にハシでつまみ、ワサビ醤油にちょっとつけて、実にウマそうに食べたのである。というわけで、食卓の話題はおのずから食文化に及ぶことになった。
「ところで、ジャワ原人(ピテカントロプス)は何を食っていたんだろう」。酒宴の座興のつもりで軽口をたたいたら、「八十万年前の話だからねエ。私は何ともいえんが、生魚も手づかみで獲って食ってたようだよ。果物、木の実、木の根っこ、やわらかい草が豊富にあった。カエルやカニも蛋白源だったとインドネシアの人類学者は推定してる」とワルデマン氏。さすがは元教育大臣、まともに話に乗ってきた。
「ピテカントロプスは、ジャワ人の祖先なのか?」「ウーン。その答は、YesでありかつNoなんだ。ピテカントロプスが、アジア人の原型であることは間違いないようだが、ジャワ人の直系の祖先が“ジャワ原人”というわけでもない。私は考古学者でも人類学者でもないから、それ以上はわからない。せっかくジャワまで来たんだから、現地に行ってみたらどうだ」。そう勧められたのである。
 翌日の仕事の日程は、ジャカルタから飛行機で一時間ほどの「インドネシアの京都」といわれるジョクジャカルタ市の大学訪問が入っていた。そこから車で二時間ほど奥に入ったソロ川流域が、ピテカントロプスの化石が発掘された“アジア人の故郷”だった。「生魚談義」が、ひょんな方向に発展して、ジャワ原人の地にも足を延ばすことになったのである。
 道連れは、白石隆・京大教授と草野靖夫・元毎日新聞ジャカルタ支局長、旅のパートナーとしては最高の仲間であった。
 ジャカルタから中部ジャワのジョクジャカルタまで空路で行く。機窓から「ジャワ富士」と日本占領時代に名づけられた活火山メラピ山がくっきりと見える。ドーナツ型の雲が山頂にかかっている。
「このあたりは歴史の宝庫だ。紀元五世紀ごろからインド商人がやってきた。サンスクリット語とヒンドゥー教を奉ずる初期国家が成立した。少し遅れてインドから仏教もやってきた。ヒンドゥー教と仏教の寺院が多い。だからジョクジャカルタは、“ジャワ島の京都”と日本人は呼んでいる。ただし、これから訪ねるジャワ原人の故郷とは直接の関係はないから、念のため」と白石氏。
「旅行記を書くなら先史と歴史をごっちゃにしないで下さいよ」と念を押されたのである。
 
「ソロ川」のほとりにて
 ジョクジャカルタから、これまた「ジャワの奈良」とのニックネームを日本がつけたソロ市まで、車で向かう。一時間半の行程だった。ジャワ最大の河川、ソロ川の流れのほとりの古都である。
 十八世紀のマタラム王朝の首都だったという。「バテイック(インドネシアのサラサ)や古典音楽の本場であり、穏やかで落ち着いた街。気立てのよい美人多し」と持参のガイドブックにある。
 だが、今回の旅の目的は、美人の現世ご利益を楽しむことではなく、七十万〜百万年前の原人とのご対面である。ソロの北、約十八キロ、サンギラン(Sangiran)に向かう。
 山中に入る。道が悪い。サンギランは観光地ではないからだろう。赤茶けた泥道を進む。ジョクジャカルタで雇った運転手が急ブレーキを踏む。「この先行き止まり」の急坂であった。草原と森を隔てて、せせらぎの音が聞こえる。ソロ川だった。この付近一帯が、ピテカントロプスの居住地帯であったらしい。
「一度、客を案内したことがあるが、博物館があったはずだ」と運転手がいう。村人が集まってきた。「ピテカントロプス」と連呼した。村人の指差す方向にUターン。木造の博物館にたどり着く。
 畑や水田の広がる小村落の点在するこの地は、世界有数の「人類の化石地帯」であった。私たちのお目当ては、百点以上もある化石のうち、顔面部がまともに保存されたまま発見された「ピテカントロプス八号」である。「八号」の化石をもとにコンピュータグラフィックで、復元したジャワ原人たちの暮らしぶりが、等身大のパノラマで展示されていた。
 身長およそ一七〇センチ。手足は太く、体重は八十〜九十キロくらいとお見受けした。首は太く、四角い顔であごが張っている。額は狭く、鼻は低いが大きい。鼻の下が長く口が大きい。目が大きくギョロリとにらんでいる。それでもゴリラよりも人間に近い。「少しの言葉を話した」と案内板に書かれている。
 一八九〇年、オランダ人の医師であり人類学者でもあったトーマス・デュボアがこの地に目をつけ、現地の農民を使って一個につき二十セントの報奨金をつけて化石集めをやったのが、サンギラン発掘の始まりだという。「ピテカントロプス八号」は、一九六九年、付近で畑仕事をしていた村民が発見したとある、「八号」は推定二十歳くらいの男性だそうだが、残念なことに、サンギランでのご対面は空振りに終わった。博物館の番人のおじさんに聞いたら「とても大切な国の宝なので、インドネシア地質学研究所の金庫にしまってある」のだそうだ。
 ところで、ピテカントロプスは、ジャワ人の直接の祖先なのか? アジア人の原型というが日本人とはいかなる関係があるのか。ピテカントロプスは、どこから来て、そしてどこへ行ったのか。
 それを知りたいがためにはるばるサンギランにやってきたものの、博物館ではさっぱりラチが明かない。求めた英文のパンフレットも肝心なことが書いてない。
 ところが、私の問いに答えてくれたのが、館内に入り込んできた行商人に千二百円で売りつけられた、一冊の日本語のパンフレットのコピーだったのである。発行者はなんと読売新聞社。「いま復活するジャワ原人・ピテカントロプス展・日本人の源流を探る。一九九六年九月〜十一月、国立科学博物館」とあった。
 
「頼朝公、御年七歳のしゃれこうべ」
 サンギランで「読売」と遭遇するとは旅の出合いとは異なものと思いつつ、読んでみた。中身は簡にして要を得ていた。すなわち、1)猿人の発生は五百万年前のアフリカである2)猿人の一部が、中東、インドを通って、当時陸続きだった“スンダ大陸”(マレー半島、インドネシアの諸島)にやってきた。インドネシアは人類進化の一大舞台となり、百〜七十万年前にジャワ原人が発生した3)その後、ジャワ原人たちは、オーストラリアや北方アジアに移動した。北京原人(五十万年前)はその一部である4)インドネシア人の直接の先祖は紀元前一千五百年頃、南下してきたピテカントロプスのはるか末裔の南方モンゴロイド集団である5)日本人もインドネシア人同様、ピテカントロプスの末裔ということができるであった。
 まさに灯台もと暗し。旅先での疑問を解いてくれたのは、私の住む東京発行の小冊子だったとは、なんと皮肉なめぐり合わせか。「お礼をくれるなら、ピテカントロプス八号が見つかった畑に案内してやる」とパンフレットのコピーを私に売りつけた男がつきまとった。一・五キロの地点だという。だが道もない小川沿いのジャングルを抜けねばならないので、「八号」さんには失礼することにした。
 博物館の周囲には、みやげ物を売る屋台が十軒ほど並び、おばさんたちが、しつこく客引きをしていた。原寸大の「ピテカントロプス八号」の模型も並んでいる。一個二十ドル。「本物か?」と冷やかしたら、「No, Replica」とおばさんが苦笑する。
 奥から、沢ガニの化石らしきものをもってきた。同行の草野さんがインドネシア語で聞いたら、ピテカントロプスが食べていたカニの化石だといっているという。
「No, Imitasi」(イミテーションではない)とおばさんは強弁する。「インドネシア人は、器用だからこの種のニセ物作りの名人だよ」。草野さんの警告を耳にしつつも、ひとつ買わされてしまった。「頼朝公、御年七歳のしゃれこうべ」の故事のインドネシア版。私の旅日記のお粗末の一席である。
 



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