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(昭和60年度〜平成3年度)
第4節 国際社会におけるわが国の責任と役割の増大
2.飢餓対策・食料問題 飢餓会議の開催とアフリカ・プロジェクトの展開
サハラ砂漠以南のアフリカ諸国は、1983年(昭和58年)から84年にかけて大規模な干ばつに見舞われ、1億5,000万人以上が食糧不足に陥り、そのうち3,000万人もが飢餓の危機に瀕した。その後、国運機関をはじめ各国政府、国際機関、民間団体が一体となった地球規模での救済・援助活動と降雨とにより、ひとまず危機は脱したが、アフリカの飢餓問題には政治、経済、農業、人口、環境、開発など複雑な要素が入り込んでおり、その再来が懸念された。
そこで笹川良一会長は「アフリカの飢餓問題を根本的に解決する道は人口増を上回る食糧増産以外にない」と考え、1960年代にアジアの「緑の革命」を指導し成功に導いたノーマン・ボーローグ博士と接触を図った。「アジアと同じことがサハラ以南のアフリカでも可能か」と尋ねたところ、「技術的には可能であるが、それには適切な農業政策と投資が必要である」との回答が得られたので、笹川良一会長は「ボーローグ博士が技術的なリーダーシップをとってくれるなら、アフリカの小規模生産農家に新しい農業技術を伝播するプロジェクトに資金を提供したい」と申し出た。
さらにカーター元アメリカ大統領からもこのプロジェクトに積極的な賛意が寄せられ、運営のための組織の提供、現地政府との折衝などに関する協力の申入れがなされた。
こうした背景のもとに本会は1985年7月、ジュネーブで飢餓対策緊急会議を開催し、カーター元大統領、ボーローグ博士、笹川良一会長の3名が議長となって、全世界の農業学者、医学者、公衆衛生の専門家など35名によりアフリカの飢餓対策が徹底的に検討され、具体案が多数提案された。これらの提案は同年11月の運営委員会で詳細に審議され、まずすぐにでも実行可能な「ソルガム(コーリャン)」と「メイズ(とうもろこし)」の増産に焦点を絞った「アフリカ行動計画」が立案された。
このアフリカ行動計画は、豊富な専門知識と豊かな実践経験をもつボーローグ博士の科学スタッフの指導のもとに、従来の農耕法を改善することにより、いかに収穫量を増大させることができるかをアフリカ農民に実証して、大きなインパクトを与え、最終的には20か国以上にこのプロジェクトを広げ、アフリカの食糧自給体制を確立させようとするのが目的である。当面は政情が安定し、また、政府の経済政策がこのプロジェクト展開に最適であったガーナとスーダンの2か国を対象に選び、1986年から「ソルガム」「メイズ」の実験農場(PTP)を開設し、品種、水利施設、肥料の改良による飛躍的な増産をめざした。
本会は、昭和60年度から毎年資金を支出し、これらの資金は現地で働く科学スタッフの雇用や現地政府との折衝ならびにジープ、農業機材、種子、肥料、農薬などの購入等に充当された。
アフリカ行動計画は現地政府の全面的な協力もあって順調に進展し、PTPの設置数は初年度スーダン440、ガーナ40にすぎなかったが、3年目にはスーダンが約3,000、ガーナは7,000にまで発展した。しかし、スーダンでは1987年後半から内戦が激化し撤退を余儀なくされたので、1989年からこれにかわってタンザニアにおいて新たなプロジェクトを開始した。
その後、ベニン、トーゴにもプロジェクトを拡大して、各国の穀物生産の増大に顕著な成果をもたらしている。食糧の増産だけでなく、プロジェクトの活動範囲は農村金融の普及や農産物の販路拡大にも及び、国運食糧農業機関(FAO)からも高い評価を受けるに至っている。
さらに1992年度からは、ナイジェリアで新規展開を始めるとともに、技術移転を効率よく根づかせるための人材育成の一環として、本プロジェクトの現地従事者のうちから優秀な者を選抜し、大学の学位または修士号を取得するための奨学金を給付することとなった。
こうしていま、アフリカ諸国における農業の生産性は着実に向上し、経済成長の原動力となり、より豊かな経済的繁栄に向かって国民を導きつつある。
現地で指導にあたるノーマン・ボーローグ博士(左から2人目)





このプログラムは、婦人農民の参加を
積極的に奨励している



1989年飢餓会議
(平成元年8月、ガーナ・アクラ)
 
 
The Nippon Foundation