戦後、わが国の鉄道技術はめざましい発展を遂げ、世界的に高く評価され、数多くの国々から技術協力の要請が寄せられるようになった。そこで、昭和40年9月に(社)海外鉄道技術協力協会が設立され、開発途上国を中心に鉄道技術協力が開始され、本会も45年度からこの事業に対する補助に乗り出した。 一方、アメリカにおいては1970年代後半から、道路交通の渋滞と石油価格の高騰から大量輸送手段として鉄道が見直され、旅客専用の超高速鉄道の建設を望む声が強まり、わが国の新幹線技術に大きな関心が寄せられた。 アメリカ鉄道旅客輸送公社(AMTRAK)は同国の人口密集地帯にわが国の新幹線方式による高速旅客鉄道を導入する計画をたて、4つの候補地帯をあげて、日本政府に技術協力を求めてきた。 これを受け(社)海外鉄道技術協力協会により、まず1977年(昭和52年)に北東回廊改良計画の一部(78年以降は政府間べースの技術協力に移行)、次いで1979年からオハイオ州の都市間高速鉄道計画について、技術協力が開始された。 ロスアンゼルス−サンディエゴ間(約200km)については、本会が56年度から開発調査費を同協会に補助し、同年10月から本調査がすすめられた。また、同年には当時の国鉄内にもアメリカ委員会が設けられるなど、調査協力の万全が期された。 1982年、ロスアンゼルス−サンディエゴ間をアメリカにおける最初の新幹線路線とすることが決定され、カリフォルニア州議会において新幹線プロジェクトを促進するための法案が成立、アメリカ新幹線建設計画は具体化の段階へと踏み出した。 1983年には沿線の市民・企業・労働界の支持を得るため各種公聴会が活発に開かれるとともに、財政資金計画が公表され、また諸認可の申請も行われた。 しかしながら、アメリカ経済を襲った不況はそのころから深刻の度を一段と増し、1984年、資金上の問題からこのプロジェクトは中断を余儀なくされた。 |
超高速鉄道建設計画最 終調査報告書
ロスアンゼルス−サンディエゴ間 ルート図
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