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(昭和46年度〜54年度)
第5節 自然へのロマンを育む
3.宇宙科学博覧会 
第2次世界大戦後、米ソ両国が国家の威信をかけ総力をあげて推進してきた宇宙探究は、人類に限りない夢と希望を与えた。
人類の宇宙への挑戦は、今日、スペースシャトル計画や太陽エネルギー開発計画へと発展し、人類の未来に新しい可能性を拓くものとして大きな期待がかけられている。
このように宇宙開発・宇宙利用が急進展するなかで、本会が主要な推進母体となり、昭和53年7月16日〜54年1月15日(第1期)と54年3月24日〜9月2日(第2期、国際児童年協賛)の2期にわたり「船の科学館」を中心とする東京・有明の13号地で宇宙科学博覧会が開催された。
この博覧会は、青少年に対し、彼らの未来に宇宙の平和利用という限りなく豊かな可能性が広がっていることを実感させ、大宇宙へのロマンと挑戦心が育まれることを願って企画したものである。
会場には、アメリカ航空宇宙局(NASA)やアメリカ・スミソニアン研究所航空宇宙博物館(NASM)の協力のもとに、宇宙開発の最先端をいく国宝級の機器が初めて海をわたって出展され、また、すでに世界のトップレベルにあるわが国の主要な宇宙開発機器も一堂に集められた。こうした大規模な国際博覧会を、宇宙科学博覧会協会という一民間団体が大成功のうちに行ったことは、画期的なことであった。
この宇宙科学博覧会の開催は、52年に京都で開催された「第5回生命の起源国際会議」の後援団体となった(財)日本科学協会が、火星の生命を探る探査計画(バイキング計画)について、この会議で世界で初の公式学術発表を行うことになっていたNASAのバイキングプロジェクトチームと接触したのが発端となった。バイキング計画に関する一般人への公開講演会の開催を要請したところ、「もし公開講演会を開く場合には、バイキング計画で使用した火星探査機の予備機、土壌標本採集器、カメラ等を日本にもってこられる可能性がある」との返事が寄せられた。関係者はこの言葉に勇気づけられ、公開講演会付属展示から宇宙科学博覧会と呼ばれる大規模な博覧会の開催へと構想を拡大し、その具体化を急いだ。
52年9月には、宇宙科学博覧会の企画立案・運営をより組織的にすすめる必要から、有識者を中心に宇宙博組織委員会が設けられ、さらに53年2月には、広く政界、財界、官界、文化界および関連団体から人選し、宇宙科学博覧会の主催団体として宇宙科学博覧会協会(総裁:笹川良一)が設立された。
博覧会のテーマは「宇宙一人類の夢と希望」、会期は53年7月16日から184日間と決定された。
こうして宇宙科学博覧会の幕が開かれ、現代の宇宙科学の粋を一堂に集めた世界初の試みとして、教育界はじめ各方面の高い評価を受けた。会期中の入場者は予想をはるかに上回る550万人を数え、成功裡に終了した。
閉幕後も各方面から、博覧会の再開を要望する声が強く出された。しかも、54年は国際児童年という意義深い年にあたっていたので、博覧会協会は社会の要望を満たし、宇宙科学博覧会の「青少年に夢と希望を」の願いを広めるため、その再開を決断した。
国際児童年事業の主務機関である国際児童年事業推進会議からの特別後援事業の認可を受け、総理府はじめ関係各省庁の後援のもとに「国際児童年協賛宇宙科学博覧会」として、54年3月24日に会期163日間の予定で再開した。国際児童年に則り、テーマを「宇宙一人類の夢と希望、わが子への愛を世界のどの子にも」と定め、展示内容もNASAおよびNASMから新たに協力出展された展示品を加え、児童にわかりやすいものに変更した。この第2期博覧会にも570万人の入場者を迎え、宇宙科学博覧会は所期の目的を十二分に達して幕を閉じた。
この2期にわたる宇宙科学博覧会に際し、本会が行った資金援助は総額約38億円に達した。また、全国のモーターボート競走関係団体からも多くの協力がなされ、18億円の資金援助が行われたほか、宇宙科学博覧会の趣旨に賛同し、宇宙博後援推進本部を設立して、各地で自費による広報活動を積極的に展開し観客誘致を図り、入場者1,000万人突破の原動力となった。

 宇宙科学博覧会会場


 東京・銀座でのパレード


 混雑する会場


 話題となった“月の石“


 アポロシアター


 ジェミニ宇宙船


 夕暮れの会場

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